『禅と日本文化』 鈴木大拙 著 北川桃雄 訳
- 著者: 鈴木大拙
- 出版社: 岩波書店
- 発行日: 1980年7月25日
- 版型: Kindle版, 新書版
- 価格(税込): Kindle版: ¥836- 新書版: ¥836-
鈴木大拙が英語で書いた禅文化論の和訳版
本書は、鈴木大拙(本名: 鈴木貞太郎: 1870年~1966年)が英語で書いた"Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture"を和訳したものである。
鈴木貞太郎(すずき ていたろう)は旧加賀藩の医師の息子として生まれ、東京専門学校(現 早稲田大学)、東京帝国大学撰科に学んだ。座禅の師 釈宗演から「大拙」の居士号を受けた。「大拙」とは、『老子道徳経』から出た言葉「大巧は拙なるが若(ごと)く」から取られている。
大拙は、明治30年に渡米して合衆国で12年を過ごした。帰国後は学習院大学教授や大谷大学教授を務めつつ、欧米を行脚(あんぎゃ)して「禅」を西洋世界に紹介した。
本書の序で大拙は次のように述べている。
「この本はもともとは外国人のためにといって書いたものだが、それでも邦文に直して邦人に読んで貰えば、また何か利益になるか、参考になることもあらんかというので、こんなものができたわけである」
外国人への「禅」の説明
禅のことを全く、もしくはほとんど知らない外国人向けに書かれた本書の章立ては、第一章で禅を簡略に説明して、第2章以下で日本の様々な文化と禅との関係性を論じている。章立ては次のようになっている。
- 禅の予備知識
- 禅と美術
- 禅と武士
- 禅と剣道
- 禅と儒教
- 禅と茶道
- 禅と俳句
第一章で、大拙は、禅について次のように説明している。
「禅は初唐即ち八世紀に中国に発達した仏教の一形態である。その真の始まりはさらに早く、六世紀の初め、南インドからきた菩提達磨(ボジダーマ)から起こったのである」
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「禅は無明(アヴィディア)と業(カルマ)の密雲に包まれて、われわれのうちに睡っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈服するところから起るのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自ら論理を蔑視する」
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「言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである」
禅と日本の様々な文化との関連
大拙は、「禅と美術」との関連で、「わび」について次のように述べている。
「❛わび❜ の真意は貧困(ポヴァティー)、すなわち消極的にいえば、 ”時流の社会のうちに またそれと一緒に おらぬ” ということである。 貧しいということ、すなわち世間的な事物 ── 富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること ── これが ❛わび❜ を本質的に組成するものである」
茶を広く一般に伝えたのは茶の種子を中国から持ち帰って禅院の庭に栽培した栄西禅師(1131年~1215年)とされるが、「禅と茶道」においては、次の四つの共通要素があると大拙は言う。
- 和
- 敬
- 清
- 寂
茶道の作法で重視されるこの四つの要素は、禅寺の生活における作法にほかならないという。
「禅と俳句」では、そもそもは庶民の単なる言葉遊びだった俳句を藝術の域にまで高めた松尾芭蕉に、大拙は、禅における「無」の探求、並びに、禅における真理への「直覚」の影響を見た。
大拙は次のように述べている。
「時間なき時間はいつであるか。それは空な概念にすぎぬか。空な概念でないとすればわれわれは他の人のためになんとか述べられるに違いない。芭蕉の答えは『蛙とびこむ 水の音』であった」
「禅と武士」について、大拙は次のように述べている。
「哲学は知的精神の所有者によって安全に保存せられてよい。禅は行動することを欲する。最も有効な行動は、ひとたび決心した以上、振り返らずに進むことである。この点において禅はじつに武士の宗教である」
私(書評者)はこの言葉に様々な政治家たちの姿が頭に浮かぶ。吉田茂などは、最もこの禅的精神を具有した政治家であったと思う。
昨今2020年、コロナウイルスの世界同時蔓延で、私たちは全世界の政治家たちの姿を比較してみることを余儀なくされた。口で無難な美辞麗句を並べたてながら何ら国民の生活を守ることを実行しない政治家の姿を目の当たりにして落胆する人々も多い事だろう。そのような政治家は、禅的精神を闕如した政治家と言えるのかもしれない。
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