『新訳 弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル, 魚住孝至 訳・解説
- 著者: オイゲン・ヘリゲル, 魚住孝至 訳・解説
- 言語: 日本語
- 出版社: KADOKAWA
- 発行日: 2015年12月25日
- 版型: Kindle版, 文庫版
- 価格(税込): Kindle版:¥500-, 文庫版: ¥880-
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日本人弓道家とドイツ人哲学者の師弟会話
本書は、「弓道は禅なり」と言った日本人弓道家と、その弟子になったドイツ人哲学者との、師弟会話の記録である。
論理的に考えようとするドイツ人哲学者である弟子と、論理を離れよと諫める日本人弓道家である師匠との会話がきわめて面白く、かつ示唆深い。
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(1884年~1955年)は1924年に東北帝国大学に赴任後、弓道における霊性の重要性を唱えた弓道家の阿波研造(1880年~1939年)に入門を許された。稽古を初めて四年後、目の前の巻藁(まきわら)への射(しゃ)から、ようやく射手から28メートル離れた的(まと)に射る近的(きんてき)の練習に入った時、弟子のヘリゲルは師匠の阿波研造に対して、どのように矢を的にあてたらよいのかを尋ねた。その会話は次のようなものだ。
師匠: 「あなたは的(まと)にとらわれてはいけません。これまでのように射るのです」
弟子: 「しかし、的にあてるためには、狙わねばなりません」
師匠: 「違います。あなたは的を狙ってはなりません。的のことも、あたりのことも、何も考えてはいけません。弓を引いて射が離れるまで待ちなさい。その他すべてのことは、それが生じるに任せなさい」
・・・・・・ しかし、哲学者であるヘリゲルは、どうしても論理的思考から抜け出すことが出来ず、思い悩む。・・・・・・
師匠: 「あなたの一番の欠点は、まさにあなたがそのように立派な意思を持っていることです。あなたは、矢がちょうどよい時だと感じ、考えた時に、矢をすばやく射放そうと意欲され、意図的に右手を開いています。つまりそのことを意識しています。あなたは無心であることを学ばねばなりません。射が自然に離れるまで、待たなければなりません」
弟子: 「しかし、私がそれを待っていると、いつまでも射が生じません。私は弓を出来るだけ引き絞っていると、矢を放つことができず、意識して放します。引き絞った弓が両手を引き寄せてくると、射が全く生じません」
師匠: 「待たなければならないと言ったが、これは確かに誤解を生む表現でした。あなたは本当は無であるべきで、待つのでも、考えるのでも、感じるのでも、意欲するのでもありません。術なき術は、あなたが完全に無我となり、自己自身をなくすところに本質があるのです。完全に無我であることがうまく出来るようになれば、射はうまくいくでしょう」
弟子: 「もし私が単に無になるべきであるなら、その時には一体誰が射るのでしょうか」
師匠: 「誰があなたの代わりに射るのか、それを一度経験できたならば、あなたはもはや教師を必要としないでしょう。経験した時にのみ初めて理解できることを、言葉で以ってどのように説明すべきでしょう。仏陀が射るとでも言うべきでしょうか。この場合、どんな知識も口真似も何の助けになりましょう(どんな言葉も役に立ちません)」
哲学者ヘリゲルと弓道の霊性を唱えた阿波との出会い
ヘリゲルは学生時代から、中世のドイツ神秘主義のマイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260年~1328年)にあこがれていた。エックハルトの詳細については本書には記されていないが、重要な要素なので、ここで触れておきたい。
『スタンフォード哲学百科事典』によると、エックハルトは「神は知であり、実存ではない(not being)」(拙訳)と主張したという。このエックハルトの神秘主義的で当時においては極めてエキセントリックな考え方は「異端」であると宣告されて、その後はその著作の刊行が禁じられたが、ドイツには強烈な影響を残した。ヘリゲルは、このエックハルトの神秘主義に憧れ、最初は神学を学んでいた。
ヘリゲルは最初は神学を専攻していたが、その後、哲学に専門を変更した。私が想像するには、おそらく、ヘリゲルが憧れていたエックハルトは異端とされていたので、神学では自分が探求するものを学び続けることが出来ないと考えるに至ったのではないだろうかと思える。
「実存ではない」、「存在しない」、言葉を変えれば、「何もない」、「無」とは一体何なのか、「無」に至るための「自己からの離脱」とは一体どういうことなのかを思い悩んでいたヘリゲルは、ハイデルベルクに留学していた日本人から「日本では禅を通じて無に至る修行が昔からある」ということを聞き、禅を学ぶために、東北帝国大学で哲学を教える仕事の案件に飛びついて来日を果たした。
日本で禅を学ぼうと思って来たものの、外国人が禅に直接入って学ぶのはきわめて困難なので、禅の精神を弓道を通じて東北帝国大学で教えている阿波研造先生に入門したほうがむしろ近道なのではないかというアドバイスがあり、小銃射撃を学んだことがあったヘリゲルは、同じ的を狙う競技だから弓道は親和性があるだろうと思って阿波に入門する。
「弓道は禅なり」と言った阿波研造
弓道家の阿波研造は、38歳くらいから参禅をし始めて、40歳の頃に次の言葉を残しているという。
「いたずらに形に走り、その神(しん)を忘れしこと近年初めて自覚せり。弓道は禅なりと気づかざりしため、十年間無駄骨を折った」(櫻井保之助『阿波研造』)
阿波は、競技だけならば「弓遊病」にすぎず、道を冒瀆するものであると批判したという。禅は「霊的内的統一融和の無上境」を求めるものだが、弓道は「心と身との統一融和」の修養法であると主張していたという。
「無」を求める禅の精神を弓道の精神とした阿波と、「存在を離れる」ことの意味を求めていたヘリゲルが出会ったことは、奇跡だと私には思えた。
私(書評者)は大学の時に体育の選択種目として「弓道」を選んだことがある。早稲田大学大隈講堂の裏手にあった「弓道場」で初めて日本の弓と矢に触れた。
当時の早稲田大学の弓道の授業は、きわめて論理的なもので、的にあてるためのセオリーと技術を学んだ。たとえば、「つのみ(角見)」というテクニックがあった。その時の私のつたない理解をもとに言えば、「ゆんで(弓手:左手のこと)」で弓を持った時の親指うしろの出っ張ったところを、矢を放つ時にやや押し込む形になるのを「つのみ」というのだった。なぜならば、西洋のアーチェリーの弓と日本の弓との違いは、アーチェリー(洋弓)の場合には、弦を放ては矢がまっすぐに飛んでいくように弦の中心線が弓本体の中心になるように弓の中央部が凹(へこ)んでいる。それに対して、日本の弓(和弓)は弓の中心線が弓の真ん中に戻っていくようになっているので、矢はそのままだと右方向にそれやすい構造になっている。これを日本の弓では射手の鍛錬によって補うことになる。技術的なコツとしては、そのひとつが「つのみ」なのだった。
早稲田大学の弓道場で私が教わった弓道は、東北帝国大学の阿波研造先生の弓道の霊的精神とはまったく異なった、論理的思考に基づく左脳的方向を向くものだったのかもしれない。
ともあれ、禅における自我の「無」を弓道における精神修養に生かした阿波研造とオイゲン・ヘリゲルとの奇跡的出会いが、西洋に衝撃を与えた名著『弓と禅』を生んだことは間違いない。
師匠: 「私が眼をそのように閉じていると、的(まと)は次第にぼんやりとなり、やがて的が私の方に来るように思われ、私と一つになります」
阿波研造師匠のこのような神秘的な言葉を、弟子のオイゲン・ヘリゲルは、哲学者として一体どのように論理的に解釈し得たのか、それは、本書でお読みいただきたい。
私は旧訳版を昔 文庫本で買って読んだが、5年前にこの「新訳」が出たのでKindle版でまた買って読んだ。何度も何度も繰り返して読みたくなる、実に魅力的な書である。
Kindle版(新訳)(KADOKAWA)
単行本(福村出版)