『大唐西域記 ー 玄奘三蔵の旅』 玄奘 著, 水谷真成 訳
- 著者: 玄奘 著, 水谷真成 訳
- 出版社: 平凡社
- 発行日: 1983年11月8日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 絶版
1400年前の記録とは思えないモダンな編集
「世界三大旅行記」とされる三書のうち、最も古いものが、中国僧の玄奘(三蔵法師: 602~664)がインドへの巡歴を記した『大唐西域記』である。
「世界三大旅行記」とは、これに、日本の遣唐使 円仁(794~864)が唐での10年間の仏跡巡礼を記録した『入唐求法巡礼行記』、そして、ヴェネツィアのマルコ・ポーロ(1254~1324)の『東方見聞録』を合わせた三書を指す。
これら三書のそれぞれを私(書評者)にキャッチフレーズ付けさせたとすれば、次のようになる。
- 『東方見聞録』・・・ 記憶と伝聞を誇張した壮大なファンタジー
- 『入唐求法巡礼行記』・・・ 仏教弾圧下でのスリリングな正確無比な記録
- 『大唐西域記』・・・ 1400年前の『地球の歩き方』
なぜ『大唐西域記』を「1400年前の『地球の歩き方』」と表現したかと言うと、唐の僧侶だった玄奘がインドへと実際に歴訪した110か国(都市国家)とその地域で伝聞した国々(各都市)の記録が、地誌的なとてもモダンな編集になっており、各都市各地域を地誌的にまとめた現代の海外旅行ガイドブック(”Lonely Planet”や『地球の歩き方』)に似た構成になっていると私(書評者)が感じたからである。
きわめて正確な地勢描写
たとえば、UNESCO(ユネスコ: 国連教育科学文化機関)が今でも「東西文化の交差点(crossroad of cultures)」と呼んでいるサマルカンド(Samarkand)を見てみよう。
サマルカンドは、現在のウズベキスタンの「古都」と言われる場所である。このサマルカンドについて、玄奘は約千4百年前に次のように記している。
「サマルカンド国は周囲が1600~1700里あり、東西が長く、南北が狭い。国の大都城は周囲20余里である。非常に堅固で住民は多く、諸国の貴重な産物がこの国にたくさんあつまる。土地は肥沃で農業が十分行き届き、木立はこんもりとし、花・果はよくしげっている。良馬を多く産する。機織の技は特に諸国よりすぐれている。・・・ここの王は豪勇の人で、諸国はその命をうけている。兵馬は強盛で、・・・その性質が勇烈であり、死をみること帰するがごとく、戦って前に打ち向かう敵がないほどである。これより東するとマーイムルグ国に至る」
このような調子で、百以上の都市国家の地勢や風俗や気候風土などが記録されている。
インドとは「月」という意味だった
興味深いのは、「印度」という名称について次のように書いてあることだ。
「天竺の名称を調べてみるに、ふるくは身毒ともいい、あるいは賢豆ともいったが、今は正音に従って印度というべきである。・・・印度とは、唐で月ということである。月には多くの呼び方があるが、印度というのはその一称である。その意味は、もろもろの生あるものは輪廻転生してとどまることがなく、その無明の長夜にはあさを告げることもない。それはあたかも、白日が隠れてしまうと宵のともしびが光をひきつぐようなもので、たとえ星の光が照らすことはあっても、どうしてはっきりした月の明るさにおよぼうか。まことにこのような道理により、これにちなんで月にたとえたのである」
つまり、ブッダが遺した仏法は太陽の光で、たとえ暗い世の中にあっても、賢者はその光を受けて暗い世の中を照らすことができるというのである。
多くの仏教経典を持ち帰った玄奘は、仏教経典のサンスクリット語から中国語への翻訳を唐の第2代皇帝 太宗に陳情した。名君として知られる太宗皇帝は、仏教経典翻訳も聞き入れる一方、玄奘が持ち帰った膨大な旅行情報を西域各国の情勢記録としてまとめるように命じた。そうしてできたのが本書である。唐は、玄奘によってインドの仏教経典を入手翻訳すると共に、同時に辺境各国の情勢をも手にすることができたのである。