『古寺巡礼』 和辻哲郎 著
- 著者: 和辻哲郎(わつじ てつろう) 著
- 出版社: 岩波書店
- 再版発行日: 1979年3月16日
- 版型と価格: 文庫 ¥880- Kindle版 ¥990-
若き哲学者が書いた仏像鑑賞記の古典
本書は、1918年(大正7年)に哲学者の和辻哲郎が20代の時に書いた仏像鑑賞記である。仏像鑑賞記の古典とも言える作品である。
東大寺・唐招提寺・薬師寺・法隆寺などの奈良の古寺と仏像が中心に書かれている。京都の広隆寺の弥勒菩薩や浄瑠璃寺のことも書いてはあるが、特に熱をもって語られるのは奈良の寺院の仏像たちである。東京帝国大学哲学科を出た若き哲学者 和辻哲郎の感性は鋭く、それが東西の両文化を常に見比べる該博な知識に裏付けられて、歯に衣着せぬ描写を行うのが和辻の流儀である。
奈良の三月堂(東大寺 法華堂)の不空羂索観音について、和辻は次のように述べている。
「本尊の姿の釣り合いは、それだけを取って見れば、恐らく美しいとは言えないであろう。腕肩胴などはしっかりできていると思うが、腰から下の具合がおもしろくない。しかしあの数の多い腕と、火焔をはさんだ背光の放射的な線と、静かに迂曲する天衣と、そうして宝石の塊りのような宝冠と、それらのすべては堂全体の調和の内に、奇妙によく生きている。・・・推古の美術は多くを切り捨てる簡素化の極致に達したものであるが、天平の美術はすべてを生かせることをねらって部分的な玉石混淆を恐れないのである」
和辻はその時その時に随時感じたことを忌憚なく、時に辛辣に叙述する。だから、時には言いすぎたり、後に多少の訂正が必要になったりすることもある。この三月堂の不空羂索観音についても、三月堂の外観は好きだったが、中にある本尊の不空羂索観音については「さほどいいものとは思っていなかった。しかるに今日は」と、時を経て違った印象を得たことを率直に認めている。
『続紀』(しょくき)や東大寺の『要録』などの講読による歴史知識に裏付けられた感想もヴィヴィッドである。東大寺大仏殿の建築について、和辻は次のように書いている。
「もとより大仏殿は今のように左右に寸のつまった不格好なものではなかった。現在は正面の柱が八本であるが、最初は12本あって、正面の大きさがほとんど倍に近かった」
鋭い感性、時に毒舌
和辻哲郎は、鋭敏な感性と博覧強記とを添え合わせた非凡なる批評によって注目を集めた。左脳的な批評家がもっぱら多い中にあって、和辻はある意味、左脳と右脳とが絶妙に調和したクリティックだったと言えるように思える。たとえば、大仏殿の柱の数の違いを歴史に見るや、直ちにその形象の現状との差異を生々しく眼前に浮かび上がらせることができた。これは右脳の発達した人間のなせる業である。その一方で、比較して優劣を決めなければ気が済まないという左脳的な性癖も強く持っていた。
東大寺の伎楽面で、鼻が天狗のように長く誇張された天平時代の「怪奇な仮面」を和辻は高く評価している。そして、天平の伎楽面を鎌倉時代の地久面(ちきゅうめん)、納曾利面(なそりめん)と比較して、明らかに「鎌倉時代面は創造力の弱さを暴露した作品」だとしている。
また、「伎楽の優れた点が能楽の時代に消滅し去ったということは考えられる。・・・能狂言が長い進歩の結果として現れたとしても、それが必ずしも天平の伎楽より優れたものだとは言えない」とも言って、能楽や能面の静謐な美を過小評価している。しかし、この能面の過小評価ということについて、和辻はのちに、1936年(昭和11年)の『能面の様式』の中で、自らの前述を悔いて、次のように反省している。
「今からもう18年の昔になるが、自分は『 古寺巡礼』のなかで伎楽面の印象を語るに際して、【能の面は伎楽面に比べれば比較にならぬほど浅ましい】と書いた。能面に対してこれほど盲目であったことはまことに慚愧に堪えない次第であるが、しかしそういう感じ方にも意味はあるのである。自分はあの時、伎楽面の美しさがはっきり見えるように眼鏡の度を合わせておいて、そのままの眼鏡で能面を見たのであった」
「能の面は伎楽面に比べれば比較にならぬほど浅ましい」という表現は、『古寺巡礼』の「新版」では和辻自身によって削除されているようであるが、1936年の『能面の様式』のほうの文章を読むとその言質の証拠があって、和辻哲郎の思索の過程を辿れるようで興味深い。和辻は、『能面の様式』の中で、多少言い訳がましくも、次のように続けている。
「能面の美を明白に見得るためには、ちょうど能面に適したように眼鏡の度を合わせ変えなくてはならぬ。それによって前に病的、変態的、頽廃的と見えたものは、能面特有の深い美しさとして己れを現わして来る」
時折、言葉が過ぎて毒舌にも聞こえるのは批評家の常かもしれない。
和辻は「眼鏡の度を合わせ変えなくてはならぬ」と述べたが、パラメーターの変換次第で如何様にも結論を変えられるのが、実に左脳的な領域の特徴である。和辻の批評の場合、右脳の直感と左脳の論理があいまって協働した時には素晴らしい評論となるが、左脳が物言わぬ右脳を踏みしめて前面にしゃしゃり出てくると、途端に厳正な公正性の境界線が後退して五月蠅くなってしまうようにも思える。
名著『古寺巡礼』は、和辻哲郎の著作の中でもとりわけ人気が高い作品である。時に口うるさく感じられ言葉が過ぎることはあるが、このような目覚ましい人がたまたま知り合いの中にいたと仮定して、その友と一緒に古寺を巡り歩くことを想像して読むのも、本書の読書方としてはひとつの読み方かもしれない。