『ウイルスは生きている』
- 著者: 中屋敷 均(なかやしき ひとし)
- 出版社: 講談社現代新書
- 発行日: 2016年4月1日
- 版型: キンドル版・新書版
- 価格(税込): Kindle版:770円、新書版:924円
ウイルスは生物か? それとも、物質か?
「ウイルスは生きている」という書名は、ウイルスの定義にかかわる著者の見解がストレートに表出したものである。
なぜならば、「ウイルスが生物であるか、生物ではなくて単なる物質であるのか」については長年学会で論争が続いてきたからである。
これは、「生物とは何か?もしくは、生命とは何か?」という、生物学の根本的な定義にかかわる問題であり、それゆえ、深淵かつ長久な論争になってきた。
中屋敷氏の『ウイルスは生きている』では、この前段の論争が常識として述べられていないので、本の紹介の前にまずそこについて触れたい。
生命とは何か? たとえば、ランダムハウスウエブスターズ大辞典で「life」を検索すると「生命」の古典的な定義として次のような文言が出てくる。
"the sum of the distinguishing phenomena of organisms, esp. metabolism, growth, reproduction, and adaptation to environment."
生命とは「有機体の明確な現象の総体。とりわけ、代謝、成長、再生、環境への適合」(拙訳)
ここでまた定義が必要なものが出てくる。「有機体」である。
東京大学教養学部編のテキスト("Introduction to LIFE SCIENCE"; CSLS)によれば、生命有機体には四つの要素があるという。それは以下の四つ(拙訳)である。
- 細胞構造から成る。
- DNAにより再生(reproduce)する。
- 環境からの刺激に反応する。
- 環境からATP(adenosine triphosphate: アデノシン三リン酸)を合成する。そしてそのエネルギーを用いて生きて成長する。
以上の定義に鑑みながら考えてみると、
- ✖ ウイルスは細胞膜を持たないので細胞構造を持たない。
- 〇または▲ ウイルスはDNAを持つものがあり、またウイルスにはRNAを持つものがある。
- 〇 ウイルスは環境からの刺激に反応すると言える。でなければ、宿主に感染できないからである。
- ✖ ウイルスはATP(adenosine triphosphate: アデノシン三リン酸)を合成できない。
つまり、ウイルスは生命有機体の定義を半ば満たしているが、半分は満たしていないのである。
比較的新しい「生命の定義」の提唱についても見てみよう。
すなわち、2010に発表された、ジョンズホプキンス大学のマックレムとシーリー(Peter T. Macklem, Andrew Seely)による生命の定義である。
新しい「生命の定義」
マックレムとシーリーの定義によれば、生命とは、(括弧内は拙訳)
- self-contained,(自己充足型)
- self-regulating, (自律型)
- self-organizing,(自己編成型)
- self-reproducing,(自己再生型)
- inter-connected,(相互連絡型)
以上の五つの条件を満たすopen thermodynamic network(開放系熱力学回路網)だという。
ウイルスを以上の五つの条件について以下考えてみよう。
- ✖ ウイルスは宿主を必要とするので、self-contained,(自己充足型)ではない。
- ▲ ウイルスは、self-regulating, (自律型)の一面もあるが、宿主次第なので非自律型とも言える。
- ▲ ウイルスは、self-organizing,(自己編成型)の一面もあるが、宿主細胞がなければ編成できないので非自己編成型とも言える。
- ▲ ウイルスは、self-reproducing,(自己再生型)の一面もあるが、宿主細胞の中でなければ再生できないので、非自己再生型とも言える。
- ▲ ウイルスは、inter-connected,(相互連絡型)の一面もあるが、やはり宿主細胞を必要とするので、非相互連絡型とも言える。
以上、みてくると、やはりウイルスは生命の定義を満たしてはいない。
やはりウイルスは単なる物質か、もしくは、半生命・半物質的な存在という感じは拭えない。
前置きが長くなってしまったが、
以下、本書『ウイルスは生きている』(中屋敷 均 著)の紹介に入って行こう。
『ウイルスは生きている』
著者の中屋敷 均(なかやしき ひとし)氏は、神戸大学大学院農学研究科教授で専門は細胞機能構造学で、植物や糸状菌を材料にした染色体外因子(ウイルスやトランスポゾン)の研究をされている。
著者の研究材料は、カリフラワーモザイクウイルスという、アブラナ科植物に病気を起こす二本鎖DNAウイルスだった。その「DNA溶液」を傷つけた葉っぱに滴下してゴシゴシとやるだけで植物が病気になるという。
しかし、著者が何よりも驚いたことには、そのウイルスDNAをたった1つの塩基を変異させただけで、同じことをしても感染しなくなるということだったという。植物細胞で増殖し、子孫ウイルスを山のように生み出し植物全体を病気にしてしまうという姿は「生き物」以外の何物でもないが、そのDNAの暗号をわずかひとつだけ変化させただけで、葉っぱでまたゴシゴシとやっても何も起こらなくなる(感染しなくなる)という意味では、「ただの物質」のようだと著者は言う。(その機序たるや)なんて面白いんだと著者はウイルスという存在のありように心底魅せられたという。
著者は言う。「教科書ではウイルスは生物ではないと教えられる。しかし、実際にウイルスを身近に扱うようになると、それは生きているとしか思えないものだった」
著者の研究分野の植物病理学では、「細菌によって起こる病気もウイルスによって起こる病気も、基本的には同じ生物現象にしか思えない」と著者は言う。
中屋敷 均氏は京都大学で博士(農学)を取られた方で、筆者が経験から思うに京大の先生は思考法がきわめて柔軟な気がする。筆者の経験とは、京大の先生方と数人で京都の飲み屋で飲み会をした時のことだ。青唐辛子が入ったビールを皆で飲んでいたので、筆者がコスタリカで青唐辛子を食べて舌に激痛を覚えたときに現地の人が塩を持ってきてなめろと言ってくれたことを話した。ひとりの先生は「迷信か」と笑ったが、京大でゴキブリの研究をされていた別の先生は宙の一点を見つめるように私の言ったことをじっと黙考していた。そしてやおらこう言った。「あっそうか!イオンチャンネル・ブロックだ!」
話が脱線したが、著者の中屋敷氏はその柔軟な思考法による「ウイルス感染」の比喩的説明をしている。それは、以下のような比喩である。
「家なき子は部屋に入って動ける環境になればすばしっこく、時には本来の住人の足を引っ張って、部屋の中の3Dプリンターや家財道具を平気で先に使ってしまう。本来の住人は一部屋に一人という原則を持っているが、家なき子はそんなことはお構いなしに分身の術を多用し、あっという間に部屋一杯に増えてしまう。・・・最終的には3Dプリンターで作った出来立ての新しいレインコートを着た沢山の家なき子たちが、意気揚々と部屋の外へと出ていく顛末となる・・・これが典型的なウイルス感染の比喩的な説明である」
ウイルスは弱毒化するか?
2016年に出版された本書には当然のことながら新型コロナウイルス:COVID19 のことは書いてない。しかし、きわめて興味深い「ウイルスの弱毒化」についての記述が本書にはある。
昨今、ニュースで流れる新型コロナウイルスの解説には、ウイルスの強毒化の話が多いが、「ウイルスの弱毒化」とはそれと真逆のことである。
著者によれば、オーストラリアで外来種のウサギが数十億羽に大繁殖して生態系に危害が及んだ1950年代にウイルスによるウサギ駆除作戦が展開された際に、使用されたウサギ粘液腫ウイルスは当初は極めて高いウサギの致死率をみせたものの、やがてそのウイルスは弱毒化していったという。こうしたウイルスの弱毒化は、数千万人から1億人もの人々が世界で死亡したとも言われる「スペイン風邪」でもみられ、パンデミックの発生から数年で「スペイン風邪」ウイルスの弱毒化が報告されているという。
なぜウイルスは、いったい何のために弱毒化するのか?
「その謎の答えは、ウイルスという病原体の性質にあると考えられている。ウイルスは生きた宿主の細胞の中でしか増殖できないため、宿主がいなくなれば、自分も存在できなくなる。理屈の上ではウイルスにとって宿主を殺してしまうメリットは極めて乏しく、積極的に宿主を殺すようなモンスターは、いずれ自分の首を絞めることになるのだ」と著者は記している。
本書『ウイルスは生きている』は、きわめて刺激的でエキサイティングな本である。ウイルスという難しい世界を描きながらも、筆者の柔軟な比喩や歴史的な知見を交えわかりやすく書かれているため、誰にでも強くお勧めできる。
新書版 Kindle版