『完訳 統治二論』 ジョン・ロック 著, 加藤 節 訳
- 著者: ジョン・ロック 著, 加藤 節 訳
- 原題: TWO TREATISES OF GOVERNMENT
- 言語: 日本語版
- 出版社: 岩波書店
- 発行日: 2013年11月28日
- 版型: Kindle版, 文庫版
- 価格(税込): Kindle版:¥1,540-, 文庫版: ¥1,650-
緊急事態に対する各国政府の対応の違い
コロナウイルスが蔓延して自宅待機と営業自粛が要請されるなかで、企業倒産や家賃さえも払えなくなる店舗や個人が急激に拡大しつつある。
コロナウイルスの猖獗が中国から世界へと広がってきたなかで、各国政府のそれに対する対応が如実に異なって見えてきている。
すなわち、民衆を助けるために迅速な対応をした果敢な政権と、グズグズしている優柔不断な政権 である。
今、こういった世界的な「緊急事態」の中で、私たちは、今こそ、統治機構である政府と一般民衆との関係性について民主主義の原点とも言える政治哲学を述べたジョン・ロックの思想の神髄を振り返ってみる必要があると私には思える。
「統治二論」とは
「統治二論」という日本語は、とても難しく感じるが、英語原題は、"TWO TREATISES OF GOVERNMENT"ということで、「政府に関する2つの論文」ということである。翻訳文は、アカデミズムを追求する一方で、反面、衒学的(ペダンティック)になりがちだということに留意する必要がある。なんでも物事には二律背反があるのだ。
なので、あまり難しく考えずに、何よりもジョン・ロック本人が言いたかった要旨を汲み取っていただきたいと思う。
この「二論」、すなわち、2つの論文とは、本書を前半と後半に構成する二つの要素で、第1論と第2論にわかれる。
第1論と第2論は、要するに、以下のような内容である。
- 第1論・・・・・・ ロバート・フィルマー卿(Sir Robert Filmer)の政治思想「王権神授説(Divine right of kings)」または「家父長権論(Patriarchalism)」への反論
- 第2論・・・・・・ 文明社会は、「自然権(Natural rights)」と契約理論に基づくべきであるというロック本人の主張
つまり、旧態然とした古い政治思想を、まず第1論で否定し論難していき、
それじゃあ、おまえさんはどんな意見、代案を持っているんだよと訊かれたところで、
第2論で、ジョン・ロック本人の理想とする思想を述べるというのが、この本の形式なのである。
ロックが批判した王権神授説とは
第1論で、ロックが批判した「王権神授説(Divine right of kings)」または「家父長権論(Patriarchalism)」とは、どのようなものだったのか。
「王権神授説」は、この言葉の通りで、君主(または国王)の権力というものは、神様からその君主に下されたまわったものなのだから、君主の権力というのは絶対的なもので、決して否定できない、ありがたいものなのである。よって、下々(しもじも)の民衆・国民は、君主の権力を神からの御威光として、ただただありがたく受けなければならない。だからどんな辛苦も人民は耐え忍ぶべきであって、君主に文句を言ったり反抗するなどは神に逆らうことと同じでもってのほかだ。という理論である。
「家父長権論」も、「王権神授説」を別の言葉で言ったにすぎない。社会の最小構成単位である家庭でも、家父長(父親)が一番偉いのだから、それと同じで、社会の最大構成単位である国家のお父さんにあたる君主も、一番偉くて、お父さんに逆らったら罰が当たるぞ。という論理なのである。
ロックが主張した「自然権」とは
第2論のロックの理想とする文明的社会を支える「自然権(Natural rights)」の考えとは、以下のようなものである。
- 「自然権」は、その名の通り、人間の生まれながらの権利である。
- 「自然権」は、生まれながらの権利なのだから、生まれたあとに属した社会や国家の法律や規定によって制限されない。
- 「自然権」は、世界、宇宙、あまねく同一の権利である。
- 「自然権」は、人類共通の人間の生まれながらの権利なのであるから、そもそも、人間の権利、すなわち「人権」であって、それは国家成立以前の権利なのだから、何よりも優先されるべき権利である。
ロックの「自然権(Natural rights)」の考えを、私なりにまとめると、以上のようになる。
西洋社会がうるさく「人権(Human rights)」を尊び主張し唱道するのは、ロックという先哲が西洋社会の論理の基底にあるからである。
政府による「さん奪」とはどういう状態か
君主の権力はそもそも神様からその君主にくだされたまわったものなのだから、君主はやりたい放題であり、君主が何をやっても、人民の生活をなんらかえりみなくても、人民民衆はそれに耐えなければならず、君主に文句を言ってはならないというのが、「王権神授説」であったが、これに対して、ロックは猛然と反発して、「王権神授説」を唱えたフィルマー卿を批判したのだった。
ロックは、悪い政府の態度様式として、「簒奪(さんだつ)」と「暴政」を挙げている。(簒奪の漢字は難しいので、以下「さん奪」と書く。)
ロックは政府による「さん奪」について次のように述べている。
「征服を国外からのさん奪と呼んでよいように、さん奪とは一種の国内的な征服である。・・・ さん奪とは他人が権利をもつものを横取りすることに他ならないから、さん奪者は自分の側に権利を決してもちえない」
ロックは、政府による「簒奪(さんだつ)」と「暴政」との違いについて、次のように述べている。
「さん奪が、他人が権利をもつ権力を行使することであるのに対して、暴政とは権利を超えて権力を行使することであって、何人(なんびと)もそのようなことへの権利をもつことはできない。そして、この暴政とは、人が、その手中に握る権力を、その権力のもとにある人々の善のためではなく、自分自身の私的で単独の利益のために利用することである。つまり、それは、統治者が、いかなる名称を与えられているにせよ、法ではなく自分の意思を規則にし、彼の命令と行動とが、人民の固有権の保全のためではなく、自分自身の野心、復讐の念、貪欲さ、その他の気まぐれな情念の満足に向けられているときに他ならない」
ここまで、ざっと、ジョン・ロックの思想を端折って紹介してきた。
ロックは、簒奪とは「他人が権利をもつ権力を行使することである」と言った。
現下、コロナウイルスが蔓延して自宅待機と営業自粛が要請されるなかで、企業倒産や家賃さえも払えなくなる店舗や個人が急激に拡大しつつある。
営業権を政府によって剥奪された人々は、政府によって簒奪されたと、このロックの意味ではとれる。しかし、多くの政府は、この権利の剥奪に対して、トレードオフとなる営業補償を行ってきている。そのような政府においては、簒奪とは言えない。
つまり、営業補償なき営業権の剥奪は、簒奪とも言い得る。日本政府も中小企業庁が持続化給付金を支給するなど手当ても行ってはいるが、欧米諸国に比して遅きに失したこと、そして補償の少なさ、疫病蔓延の長期化に比して補償の短期性が云々されている。
今、こういった世界的な「緊急事態」の中で、私たちは、今こそ、統治機構である政府と一般民衆との関係性について民主主義の原点とも言える政治哲学を述べたジョン・ロックの思想の神髄を振り返ってみる必要があると私には思える。
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