サイエンス

ラマルク 対 ダーウィン: 進化論 獲得形質の論争

2020年4月19日

『主体性の進化論』 今西錦司 著

  • 著者: 今西錦司
  • 出版社: 中央公論社(現  中央公論新社)
  • 発行日: 1980年7月25日
  • 版型: 新書版
  • 価格(税込): 絶版

 

京大の生態学者 今西錦司

今西錦司(1902~1992)は京都帝国大学(現 京大)で「日本渓流産蜉蝣目」で理学博士となり、内蒙古学術調査隊や南洋ポナペ島探検やマナスル踏査、カラコルム・ヒンズークシ学術探検などに参加した。日本モンキーセンターを設立し、アフリカ類人猿学術調査を隊長として率い、日本における霊長類研究の創始者ともされている。本書は、こうした今西の探検家、登山家、生物生態研究者としての生々しい種々の経験に裏付けられた、進化論論争についての「随筆」である。「あとがき」には、「私は本書を学術論文としてではなく、一つの長大な随筆として書いた」とある。学術論文ではないので、データの羅列や比較的難解な用語も用いてなくて、一般の人が気楽かつ興味深く読むことができる進化論論争の本である。

 

博士論文「日本渓流産蜉蝣目」

今西は、「日本渓流産蜉蝣目」で理学博士となったが、本書にはその研究のいきさつも書いてあって興味深い。「蜉蝣」とは、「カゲロウ」のことである。

本書には書いていないが、「カゲロウ」という日本語の語源は、「陽炎(かげろう)」に由縁があるという説がある。大量羽化した小さな成虫が大気中のなかで無数に乱舞する様子が、遠くから見ると陽炎そっくりに空気がゆらめいて見えたからである。もともとは「カゲロウ」はギリシャ語で"εφημερα"(エフェメラ)といい、ここからラテン語学名は、"Ephemeroptera"となった。英語でカゲロウのことを"Mayfly"と呼ぶが、これは毎年5月にカゲロウの羽化が清流で大発生したためである。しかし、英語にはギリシャ語の痕跡が残っている。"ephemeral"(イフェメラル)という英語である。"ephemeral"は、「はかない」と意味で、この意味はまさしく、カゲロウから来ている。カゲロウは水棲(水生)昆虫であるが、羽化して水面から飛び立つと、たった1日で死を迎えると世間一般ではみられていて、それゆえに「はかない」ものとされてきたのだ。なぜ私(書評者)がカゲロウに詳しいかと言えば、水棲昆虫の擬餌針を使うフライフィッシングも含めて魚釣りが趣味だからである。

脱線したが、今西の大学の時の卒業論文も水棲昆虫についてのものであった。「日本アルプスの二、三渓流における水棲昆虫について」という論文だったという。その因縁で、今西は大学卒業後も渓流の水棲昆虫をつづけて調べることになったのだという。それで今西は住居を西陣から下鴨(しもがも)に移した。賀茂川を研究フィールドに選んだから、調査場所にすぐ近い下鴨に住むことにしたのだ。今西は毎日加茂川(加茂川:賀茂川と鴨川は水系は同じでも、上流・下流の違いがある。)に通って水底の石をひっくり返して、カゲロウ幼虫を採取していたところ、ある発見をした。それは、四種類の大型のヒラタカゲロウ幼虫が、川の流速に応じて、流心のほうから エペオラス・ウエノイ、→ エペオラス・カーバチュラス、→ エペオラス・ラティフォリウム、→ エクディオナラス・ヨシダエ という順に並んで分布しているという法則を今西は見つけたのだった。場所を変えて、くりかえし調べてみてもやはり同じ配列になっていた。流速の違いに応じて、種類ごとに並んで配列しているような現象を指してその後、「棲みわけ」と呼ぶようになるが、今西は、「これは種が棲みわけているのである」という。こうして、今西は、種の立場という、個体の立場よりも一段レベルの高い立場から、個体をみることができるようになったという。

 

獲得形質が遺伝するか否かの論争

ジャンバティスト・ラマルク(1744~1829)はフランスでブルボン王朝の時に生まれ、フランス革命の後にフランス科学アカデミーの会員となった。昆虫など無脊椎動物を研究して独自の進化論を唱えた。進化論の先駆けとなったラマルクの研究は、のちのイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィン(1809~1882)に強い影響を与え、ダーウィンは進化は自然が選択するという「自然選択説」を唱えるに至った。ラマルクの研究では、個体が獲得した形質は遺伝しうるという論説を含み、いわゆる「獲得形質の遺伝」は、ダーウィンに否定された。

今西錦司による本書は、そうした「進化論」における数々の論争の歴史について解説している。つまり、進化論の先駆けであったラマルクと、その後進化論の主流派となったダーウィンと、ダーウィンが主流派になったのちに、ドイツ、フランス、ロシア、アメリカなどから起きたダーウィンに反駁する論争である。ただし、ダーウィンはただやみくもに獲得形質の遺伝を自然選択説によって否定したわけではなく、ダーウィンも「獲得形質遺伝」を一部支持していたのではないかとも最近の研究では言われている。

「獲得形質の遺伝」は長いこと、生物学では非科学的であると汚辱にまみれてきた。生物学には、1958年にイギリスのフランシス・クリックによって唱えられた「セントラルドグマ(Central dogma)」という分子生物学の基本原則がある。クリックは、ジェームズ・ワトソンとの共同研究でDNAの二重らせん構造を発見し、ふたりはこのことに由り、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。「セントラルドグマ(Central dogma)」とは、生物のありとあらゆる遺伝情報は、ゲノムDNA → 複製 → DNA → 転写 → RNA → タンパク質の順番で情報が伝えられるという原則で、これは不可逆的であるという教義だった。つまり、この順番が逆になることはありえないというのが「セントラルドグマ」である。この分子生物学の定義からも、獲得形質の遺伝は非科学的であると非難されてきた。

しかし、1970年には、RNAからDNAが合成されるという「逆転写酵素」が発見されたため、「セントラルドグマ」は一部書き換えられるにいたっている。

獲得形質の遺伝についての論争は、現在に至るまでもまだおわってはいない。ましてや、分子生物学や遺伝子の研究が進めば進むにつれ、この論争は以前に増して活発になってさえきていると私(書評者)には思える。

遺伝子の発現部位にかかわるエピゲノムの動態に関する研究は、こうした論争に今後大きな影響を与えていくと思われる。

今西錦司の本書『主体性の進化論』は、進化論主流派のダーウィニズムに対する果敢な挑戦とも、または、ダーウィン派からは「古臭い」とも言われてきた。しかし、本書が提起した進化論をめぐる、めくるめく論争の歴史と著者による生態学調査の現場目線からの貴重な示唆は、今も決して古びてはいないように、少なくとも私には思える。

本書は絶版になって久しい。しかし、こうした本こそ、分子生物学の研究が盛んになってきた今こそ、Kindle版で復刊されるべきだと切に願う。

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石川 雅一

 東証ペンクラブ 会員。学校法人評議員。 元日本放送協会で国際報道に従事。アフガニスタン内戦、カシミール内戦、パンチャヤト大暴動( ネパール)、湾岸戦争、アメリカ航空宇宙局(NASA)、国連安全保障理事会、ニューヨーク市警、米国核廃棄物、ロスアラモス国立研究所、米国海軍、米加漁業紛争、京都の歴史文化伝統産業などを取材。国際機関アジア太平洋放送開発機構講師(JICA専門家)としてクアラルンプールでアジア各国の放送局のジャーナリストを育成指導。金融市場分析のテクニカルアナリストとして日本の全産業三千数百社の上場企業のテクニカル分析をダイヤモンド社で三季にわたって完遂。  早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程中途退学。早稲田大学大学院商学研究科専門職学位課程修士(研究科長賞受賞)。MBA( Le Cordon Bleu; Global Service Business, WBS)。Certified Financial Technician(CFTe Ⅱ)。 一級小型船舶操縦士、剣道初段、趣味は能楽。 【拙著】 『スピンオフ・イノベーション: ビッグファーマとバイオベンチャー Kindle版』 『平清盛の盟友 西行の世界をたどる Kindle版』単行本 2012/1/16, 鳥影社. 『Mount Hiei The Sacred Kyoto Mountain of Buddhism (English Edition): 比叡山 京都仏教の御山 写真集ガイドブック Photos & English Guidebook(英語版) Kindle版』 『京都クイズ 全800問: 四択問題 Kindle版』 『三島由紀夫が推奨した夭折の小説家 Kindle版』 『バヌアツ 光と闇の島々 Kindle版』 『京友禅千總 450年のブランド・イノベーション』共著, 単行本 2010/10/1, 同友館. 『国際ニュースで楽しい英文解釈 Kindle版』 『早稲田大学写真集<英和対訳版> Waseda University Photography:  English-Japanese translation in caption: 常磐の森の四季 Kindle版』 『小説 森の眼: スリランカの象使いと内戦の物語 (STEINBACH ノベルズ) Kindle版』 『世界の果て 詩集: インド、アフガニスタン、中東、スウェーデン、そしてアメリカ Kindle版』 『MBAの思考法: 戦略と 基礎と応用 Kindle版』 『歌集 : 春雷 Kindle版』 『光芒の大地―写真詞華集』 単行本 1997/1/1, 鳥影社. 他多数。

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