『待賢門院璋子の生涯 ── 椒庭秘抄』 角田文衞 著
- 著者: 角田文衞
- 出版社: 朝日新聞社
- 発行日: 1985年6月20日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 単行本: ¥1,540円
貴族の世から武士の世への転換軸にいた女性
平安時代が好きでたまらない私(書評者)が、藤原璋子(ふじわらの たまこ / 又は、しょうし: 1101~1145, 女院号は待賢門院)とは一言でいってどんな女性だったかと問われたならば、「貴族の世から武士の世へと大転換する、その中心の回転軸にいた女性」だと答えると思う。
別の言葉で、人間関係で、世間一般にいわれてきたことで言うならば、璋子(たまこ)は、白河法皇の猶子(養子)にして、またその愛人であり、白河法皇の孫である鳥羽天皇の中宮(皇后)であり、鳥羽天皇の第一皇子である崇徳天皇と、鳥羽天皇の第四皇子である後白河天皇、その両人の母であった。
流して聞くとなんということもなく聞こえてしまうかもしれないが、璋子は白河法皇の愛人だったあとに、白河の孫の鳥羽のヨメ(中宮)に押し込まれたのである。そして生まれた子供(崇徳)は、鳥羽のたねではなくて、鳥羽の祖父のたねだったといわれているのだ。つまり、鳥羽としては、おじいさんの子の親にさせられたわけである。
また、璋子は、若き武士 佐藤義清(さとう のりきよ): のちの西行法師の憧れの女性で、一線を越えた仲にあったのではないかとも世間ではいわれてきた。
鳥羽は、璋子が生んだ子が自分の子ではなくて祖父である白河のたねであることが分かっていたから、表向きは、崇徳が自分の第一皇子であるとされながらも、鳥羽は崇徳のことを「おじこ(叔父子)」と呼んでいたとされている。叔父でありながら子だと、そういう意味である。こういう話は、鎌倉初期の有職故実に通じた貴族が、隠された秘事実話を書いたとされる『古事談』にも載っている。
古代学の巨匠 角田文衞
本書は、古代学研究所所長で平安博物館(現 京都文化博物館)館長だった角田文衞(つのだ ぶんえい: 1913~2008)文学博士による著である。
もともと本書は、1975年に『椒庭秘抄―待賢門院璋子の生涯』という書名で朝日新聞社から出版されていたが、1985年に朝日選書から再版されるにいたった。角田によれば、「椒庭秘抄」(しょうていひしょう)という名前が「凝り過ぎ」ていて一般の読書人には馴染みにくかったので、朝日選書からの再版では、本題と副題を逆にして、『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』としたという。なお、「椒庭」とは、漢語(古代中国)で「皇后の宮殿」という意味である。
文献から璋子の排卵日を特定
文献史学を重視した角田の研究への執念はすさまじいものがあり、本書からもそれがまざまざと読み取れる。
なんと角田は、崇徳天皇が、白河法皇と璋子との間にできた子であったということを、文献から璋子の排卵日を特定することで証明しようとしたのである。
受精すると妊娠しやすくなる排卵日は生理日から推定できる。角田氏は、崇徳天皇の誕生日から、受胎期間を元永元年(1118年)9月23日から30日までと算定し、さらに膨大な当時の史料から璋子の月事を28日型と推定している。月経は当時不浄なものとして潔斎を要する儀式は月事を避けて設定されたことから推定が可能なので ある。浮かび上がったのは、中宮璋子が元永元年9月20日 から5日間、白河法皇と同殿していたという事実であった。
鳥羽天皇は璋子との初めの子(第一皇子)が自分の子ではなく、本当は祖父白河法皇の子であることを知っていた。鳥羽と崇徳との確執は、やがて、宮廷内の大きな分裂と権力闘争へとつながっていった。それは、崇徳と、(鳥羽の第四皇子の)後白河との確執へとつながり、この両者の武力衝突: 保元の乱(ほうげんのらん)がやがて起こるのであった。
保元の乱は、貴族中心の政治が武士中心の政治へと移り変わったことを当時の人々に認識させるに至った。
本稿の冒頭で、「藤原璋子とは一言でいってどんな女性だったかと問われたならば、貴族の世から武士の世へと大転換する、その中心の回転軸にいた女性だと答えると思う」と私が言ったのは、こういう歴史的経緯からである。
本書は、たったひとりの愛くるしい乙女が白河法皇という専制君主に溺愛され翻弄されて、平安の世を文字通りの「平安」から大乱の世へと導くきっかけをつくってしまった事実を淡々と、つまびらかに明らかにしていく。それでも、本書に描かれた璋子の姿は、死を迎えるまであくまでも優しく、魅力的な女性として描かれている。
『待賢門院璋子の生涯』単行本
『西行の世界をたどる』 Kindle版