『タゴール著作集 4』 ラビンドラナート・タゴール著, 美田 稔, 中村 元, 我妻和男 訳
- 著者: ラビンドラナート・タゴール著, 山室 静 訳
- 出版社: アポロン社
- 言語: 日本語
- 発行日: 1961年8月10日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 絶版
インドのノーベル賞詩人タゴールの随筆
前回は、ラビンドラナート・タゴール著の『タゴール詩集』を紹介した。
ラビンドラナート・タゴールはインドの詩人で、1913年に、アジアでアジア人に授けられた初めてのノーベル賞受賞者だった。アジア人初のノーベル賞はノーベル文学賞だったのである。
今回紹介する本は、詩集ではなくて、ラビンドラナート・タゴールによるエッセイである。ちなみに、本書の帯には、出版社は「評論」としている。
私はこの本を古書として入手した。上の写真を見て汚い本だと思う人もおられるかもしれないが、こういう珍しい書籍を手にした時の本好きの人間にとっては、こういう経年劣化も「味」のうちであって、たまらないのである。
本書の構成は三部構成になっており、それは以下の3つのテーマに分かれている。
- 生の実現
- 人格論
- 諸宗派と精神性
哲人の声の響き
ラビンドラナート・タゴールは詩人であるが、私は彼を詩人という言葉以前に哲人であると感じている。タゴールの詩を読んでいてもそれは感じられるし、特にこういうエッセイを読むとなおさらのこと哲学者然とした声の響きを感じる。
「著者序文」で、著者は、ウパニシャッドの経典が日々の礼拝に用いられている家庭に育ったと書いてある。『ウパニシャッド』とは、仏教が紀元前6世紀ごろに始まるよりもさらに前の紀元前10世紀頃から編纂され始めた宗教的文書、いわゆる「ヴェーダ」のひとつである。
それが「日々の礼拝に用いられている家庭」ということは、タゴールの育った家庭が最高カーストの「バラモン階級」(又は、ブラフミン階級)であることを意味する。
私(書評者)は、かつて仕事でしょっちゅうインド各地に行っていて、2か月くらいインドに滞在することもあったので、バラモン階級の人々と会ったこともよくあったし、実際にバラモンの友人もいて、ヒンディー語通訳でお世話になったバラモンの女性が日本を訪ねた時に連絡してくれたこともあった。バラモン階級はベジタリアンなので、日本では食事に連れて行くのがたいへんで、肉が使われていないレストランを探すのが一苦労だった。結局うどん屋に連れて行って、肉が入っていないうどんを注文した。バラモン階級の人は知的で、潔癖で、決して嘘をつかない。この世のカネとか名誉とかに全く興味がないわけではないが、決して執着しないためである。その一方で、自分の信念は曲げないし、人におもねてお世辞を言ったりすることもない。私などは、そのリサーチャーだったバラモンの女性と話していて、「ガンジー」などと発音したものだから、「ガンジーではなくて、ガンディーです」と直され、私が「でも、日本では一般的に”ガンジー”って発音するし教科書にもそう書いてある」と言ったところ、「日本には義務教育はあるのですか」と辛らつなことを言われたことがあった。でも、バラモンの人々は決して嘘を言ったりしないし、知的で実に誠実きわまりないので、バラモン階級の人々を私は心から尊敬していたし、今も尊敬している。
話が脱線したが、タゴールは「著者序文」で父親の影響を強く受けたことを語っている。父親はその長い生涯を神と親しく交わり、しかも世間に対する義務やあらゆる人間的な出来事に対する鋭い関心をいささかもおろそかにすることを許さない人であったと述べている。
私がこの「著者序文」で感じ入ったタゴールの言葉は、次の一行である。
「すべて偉大な人間の発言は、文字によってではなく、精神によって評価されなければならない」
宇宙、人間、愛
前回、ラビンドラナート・タゴールの『タゴール詩集』のなかで私の好きな詩:「この偉大な宇宙の中に」の最初と最後だけ数行ずつを取り上げた。それは以下のようなものであった。
この偉大な宇宙の中に
巨大な苦痛の車輪が廻っている
星や遊星は砕け去り
白熱した砂塵の火花が遠く投げとばされて
すさまじい速力でとびちる
・・・
どこにこのような、名もなき、光り輝く追求
路から路へと辿る共々の巡礼があろうか?
火成岩をつき破るこのように清らかな奉仕の水
このようにはてしない愛の貯えがあろうか?
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本書のエッセイのなかで、タゴールは、上の詩に似たような内容のことを述べているので、以下に紹介する。
人間が、硬化した習慣という生命のない殻のなかに自己の魂をとじこめたことや、視界をさえぎって吹き荒れる砂塵の大渦巻のように目をくらませる熱狂的な行動のなかにまきこまれるがままになることは、悲惨な自己破壊なのである。それはじつに、自己の存在の真の精神、すなわち理解する精神を殺すことである。人間は本質からいって彼自身の奴隷でもないし、世界の奴隷でもない。人間は愛するものである。人間の自由と人間の完成は愛のうちにある。この愛は完全な理解という別名をもっている。
このエッセイは1913年に刊行された"Sadhana, The Realization of Life" (1913, Macmillan Co,) の中に収録されている一節である。1913年に刊行されたということはわかっているが、いつエッセイが書かれたかはわからない。しかしながら、1900年前後の当時の世界情勢を振り返ってみるならば、このエッセイを書いたときにタゴールが念頭においていたような事件がわかるかもしれない。私(書評者)が「視界をさえぎって吹き荒れる砂塵の大渦巻のように目をくらませる熱狂的な行動」という言葉で思い起こすのは、1900年に中国北京で起きた義和団事件である。北京の列国大使館公使館区域を秘密結社の義和団が包囲して攻撃した。中国を隣国として否応なしに見ていたタゴールは、この事件を念頭に置きながら、「視界をさえぎって吹き荒れる砂塵の大渦巻のように目をくらませる熱狂的な行動」という言葉を使ったのではなかろうかと、少なくとも私はそのように理解しているのである。
富への執着と愛
利己的な欲望の絶え間ない引力で富が増加すると、富への執着はますます増していくとタゴールは述べている。そのような富者は、その富が自分の本性に属したものだと思い込み、富を自分から引き剝がすと血が噴き出すのではないかと錯覚するという。しかし、本当の「愛」に目覚めるならば、愛の力は反対の方向へその人を導くという。人間が本当の「愛」を抱くならば、富への執着は薄れていき、それらの富が自分のものではないということを知るようになるという。
タゴールは富の放棄について次のように述べている。
「それらのもの(富)を放棄することは失うことではなく、その放棄の行為のうちにわれわれの本性の完成を見出すのである」
タゴールはのちに自らの力で学校を創ることに尽力し、自らの財を注ぎ込んで1901年にベンガルで小さな学校を立ち上げた。タゴールのこの行為こそは、富の放棄の行為のうちに人間の本性の完成を見出すという愛の導きだったに違いないと私には思える。
タゴールが私財をつぎ込んで作った学校は、20年後に大学となり、大学となってから30年後、すなわちタゴール死去から10年後の1951年に、インドの国立大学VISVA BHARATI(ヴィシュヴァ・バーラティ)となった。