『戦略将軍 根本 博 ある軍司令官の深謀』
- 著者: 小松茂朗
- 出版社: 光人社
- 発行日: 1987年10月14日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 絶版のため中古本のみ入手可(2020/4現在)
在留邦人4万人の生命を救うために停戦命令を無視
根本博は、旧大日本帝国陸軍の将軍で、蒙古(現 内モンゴル)に駐在していた。終戦後、旧ソ連軍は停戦になるどころか大軍で武力侵攻してきた。根本は、ソ連軍がいかに掠奪と凌辱と虐殺を民間人に及ぼすかを諜報で痛いほどよく知っていたので、このままでは4万人の在留邦人の生命が失われると判断した。そして、最強と言われた満州の旧帝国陸軍関東軍が武装解除にやすやすと応じてしまったかたわら、根本率いる駐蒙軍は、天皇の停戦命令を無視して、ソ連軍と戦い続け、在留邦人が逃げおおせる時間を稼いだのだった。
根本博は、仙台陸軍幼年学校から陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、さらに陸軍大学へと進んだ旧陸軍のエリート中のエリートだ。
陸軍大学卒業後に中国大陸に派遣され、それ以後ずっと中国分野を担当してきた。1944年に駐蒙(内モンゴル)軍司令官に就任した。
翌年(1945年)8月15日に日本は連合国軍への無条件降伏を受け入れたが、むしろそれを機にしたかのように、日本と不可侵条約を締結していた筈のソビエト連邦の大軍は、逆に満州侵攻に拍車をかけてきた。
諜報機関から速報が伝達される。「戦車、装甲車、貨車合計六百両ほどの大集団が、外蒙国境を越え侵入。時速40キロのスピードで南下中」
このままだと、中国北東部の蒙古(現 内モンゴル)にいる無防備な日本人民間人4万人はソ連軍に掠奪虐殺されてしまう。根本博は、天皇陛下の停戦命令を無視してソ連軍と戦い続けることを決意する。
天皇陛下の玉音放送に涙しつつ、ソ連軍に徹底抗戦
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」という玉音放送に根本博は涙を抑えきれなかったが、気を取り直して張家口放送局から蒙古地区の現地司令官として、自らの声で次のように放送した。
「私は上司の命令と、国際法規に従って行動するが、邦人の生命は、私の生命をかけて保護する覚悟である。駐蒙軍の指導を信頼し、その指示に従って行動されるよう切望する」
その一方で、自分の指揮下部隊に対して次のように厳命した。
「武装解除の要求を受諾した者は、軍律にしたがって厳重に処断する。その理由のいかんを問わず、陣地に侵入するソ連軍は、断固これを撃退せよ。それによって起こる責任は、一切司令官(我)が負う」
戦い方の命令も、ソ連の大軍に対して物量が十分の一以下と劣る自軍を正面切って当たらせない、ゲリラ戦に近い戦い方を麾下に命令した。まず敵軍を自らのふところに十分に侵入させてから口火を切るのである。
自らの戦車隊を遥か遠くで相手に見え隠れさせるが、面と向かって戦闘はさせない。ソ連軍の攻撃が始まると野砲で威嚇し、いったんソ連軍に突入されれば突如として果敢な白兵戦を仕掛けてソ連軍装甲車数十両を炎上させる。この根本麾下軍の不可解な戦い方のために、ソ連軍は日本側の陣容と兵力をつかむことができず、前進することができなくなってしまった。
著者はシベリア抑留経験の記者
本書の著者小松茂朗(1916~1998)は読売新聞や東京新聞記者から第二次大戦に従軍し、満州で電信隊に任務していたが、ソ連軍捕虜となりシベリア抑留を経験して復員している。従軍経験やシベリア抑留体験を執筆していくつかの本を上梓した。であるから、本書は、まさしく執筆者としてはこの上ない人材を得たように私(書評者)には思える。著者は当時の様々な関係者に直に取材している。それは、元関東軍作戦参謀・陸軍大佐、帰還軍人引き揚げ者の会などである。
根本博陸軍中将は、戦略というものがいったい何なのかということを知悉した将軍であった。根本博は、ソ連軍侵攻から中国北部在留邦人4万人の命を救った将軍として知られているが、それ以外にも、戦後の台湾に密航して台湾軍を率いて、侵攻してくる中共軍との戦いに勝ち抜いたという驚くべき経歴も持つ。このいきさつに関しては、本書にも書いてはあるが、その台湾での部分を中心に書いた本が別にあるので、別途、その本を次回紹介することとしたい。