『蘇我氏 ── 古代豪族の興亡』 倉本一宏 著
- 著者: 倉本一宏
- 出版社: 中央公論新社
- 発行日: 2016年2月15日
- 版型: Kindle版, 新書版
- 価格(税込): Kindle版 ¥836-, 新書版 ¥880-
古代史最強豪族:蘇我氏の栄光と没落の再考
本書著者の倉本一宏は、東京大学文学博士で国際日本文化研究センター教授である。日本古代政治史と古記録学が専門で、古代史と中世史についての著書が多くある。特に藤原道長など藤原氏についての著書が4冊もある。どうやら、藤原氏についての研究を深めると、蘇我氏の研究に行きつくのは必然のようだ。なぜならば、クーデターで蘇我氏を倒して、天皇家の外戚(がいせき)氏族だった蘇我氏に成り代わって、自ら天皇家の外戚氏族へと成り上がったのが藤原氏だったからである。
本書は蘇我氏についての再考であり、本書が提示している内容は、ほぼ、以下の点である。
- 高校の授業などでは、645年の大化の改新、または、乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が中臣鎌足(なかとみのかまたり: または、藤原鎌足。藤原氏の始祖)の協力を得て蘇我氏を滅ぼし、天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指したと説明されており、そのため、蘇我氏に悪役イメージがあるが、蘇我氏は、そもそも開明的な氏族であった。蘇我氏の悪役イメージは、藤原氏によってのちに捏造された。
- 蘇我氏渡来人説の否定。蘇我氏渡来人説は、百済の高官だった木満致(もくまち)と蘇我氏の先祖である蘇我満智(そがのまち)が同一人物ではないかという仮説だが、木満致が「南行」したというのを倭に渡来したという解釈が無理矢理すぎる。「南行」は百済南部の熊津(ゆうしん)あたりに逃避したことを指すものだと著者倉本は言う。
- 蘇我氏の祖先は、5世紀に大王家の外戚(がいせき)となっていた葛城(かつらぎ)氏である。葛城氏は仁徳天皇の皇后や雄略天皇の妃を輩出し、やはり外交と軍事を担っていた。
- 645年の大化の改新、または、乙巳の変で、蘇我氏は滅亡したわけではない。滅んだのは蘇我氏の蝦夷・入鹿系の本宗家だけで、倉麻呂系の蘇我氏はその後も存続した。
- 蘇我氏による屯倉(みやけ)の経営方式による地方支配の推進を見ると、蘇我氏主導でも遅かれ早かれ、倭国は古代の中央集権国家へと到達していった可能性が大きい。
- 645年の大化の改新、または、乙巳の変の後も、大王家と姻戚関係を結んできた蘇我氏の伝統は皇室内で生き続け、太政天皇となった持統(蘇我氏濃度2分の1)は、藤原氏出身の后妃のスペアとして蘇我氏出身の后妃を選んだ。蘇我氏の血を引く自らの皇統の正当性の根源を否定したくなかったものと思われる。
- 藤原氏は、皇室内で蘇我氏の血を引く皇統を絶えさせようと、執拗に策略をめぐらせ続けた。藤原四兄弟の陰謀といわれる「長屋王の変」で自殺した長屋王もその典型的な事例である。
外交政策をめぐる確執
推古15年に派遣された第二次遣隋使が「 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言で始まる国書を持参したことはあまりにも有名だが、これは、蘇我氏の外交政策を象徴するものだという。つまり重要な点は、蘇我氏は、古代日本(倭国)の外交において、中国の皇帝からの冊封(「宗主国」と「朝貢国」の関係)を求めなかったということである。日本を東アジアの独立国として、隋というアジア最大の大国に文書を送ったのである。この時に隋の煬帝(ようだい)が不快の念を示したのは、倭国の大王が「天子」と自称したことに対してだとされている。煬帝は裴世清(はいせいせい)を国使として倭に遣わした。対戦中の高句麗と倭国が結び付くのを恐れたためであろうと、著者倉本は述べている。
蘇我氏は、倭を中国に冊封関係を求めない独立国として対外的に宣誓した。隋が滅んで618年に唐が成立すると、唐は覇権を朝鮮半島に及ぼしてきた。蘇我氏は倭の防衛体制の確立に尽力し、三国(高句麗・百済・新羅)との均等な等距離外交を保とうとした。しかし、中大兄皇子は百済救援を優先させようとしていたため、蘇我氏の外交政策と明らかに対立していた。
645年に乙巳の変で蘇我氏の本宗家を倒すと、古代日本:倭の外交政策も180度転換し、倭は百済救済の軍を朝鮮半島に派遣した。こうして戦略的に完全に間違った、唐と新羅の連合軍を相手にした朝鮮半島での日本の無謀な戦いが始まったのだった。白村江の戦(はくすきのえのたたかい)である。唐軍13万人と新羅軍5万人に対して、日本(倭)軍4万人と百済軍5千人が半島で戦い、日本軍は敗走したのである。
蘇我氏の血を引く長屋王を消せ
645年の大化の改新、または、乙巳の変が終わった後も、藤原氏の支配が確立したわけではなかった。まだ蘇我氏の血を引く皇統が残っていたからである。
長屋王は蘇我氏濃度2分の1の御名部皇女(みなべのひめみこ)を母とし、自身の蘇我氏濃度は4分の1であった。長屋王の妃の吉備内親王もまた蘇我氏濃度8分の3であった。著者倉本は次のように述べている。
「つまり長屋王家というのは、長屋王自身や吉備内親王の即位の可能性のみならず、将来何らかの事情で皇位継承者が首皇子(おびとのみこ)から他の皇統に移動した場合、蘇我系皇族腹、蘇我氏腹、藤原氏腹 という、考え得る三通りの選択肢をすべて備えていたのであり、まさに次期皇位継承資格者の巨大なストックの観を呈していたのである。不比等亡き後の藤原氏の恐怖と猜疑心が目に見えるようである。」
720年(養老4年)に藤原不比等が亡くなると、翌721年に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となった。長屋王は721年に水害や干ばつによる民の貧窮を救うために平城京と畿内の公民に対しての税を1年間免除したりその他の諸国の公民に対しても夫役を免除するなど、相次いで租税免除を実施して民から絶大な人気を集めた。九州各国では兵役の負担が大きいとして、3年間租税免除も打ち出した。一方で生産性を上げるために新田の開墾を進め、開墾を進めない地方官僚は解任した。
729年、「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」との密告があったとして、藤原宇合らの率いる軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王は自殺に追い込まれた。これが、藤原四兄弟の謀略によるとされている「長屋王の変」である。
万葉集に残る長屋王の次の和歌からは、民に慕われていた長屋王の人柄がしのばれる。
宇治間山(うぢまやま) 朝風寒し旅にして 衣貸すべき妹もあらなくに
中臣(藤原)鎌足を始祖とする藤原氏の家伝(家系についての歴史書)である『藤氏家伝』は、中臣(藤原)鎌足がクーデターで蘇我氏本宗家を倒した645年から115年後の760年に成立した。その『藤氏家伝』大織冠伝には、蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と、蘇我氏を徹底的にこき下ろす記述がなされている。
戦いに勝った者が歴史を書き直し、敗者の業績は全て否定批判されてしまうという、第二次世界大戦後の自虐史観にも似た歴史の書き換えが藤原氏によっても行われていたということを、本書を読んで書評者は感じた。
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