サイエンス

ウイルスと人間の奇怪で長い関係

2020年3月28日

『ウイルスの意味論ー生命の定義を超えた存在』

  • 著者: 山内一也
  • 出版社: みすず書房
  • 発行日: 2018年12月15日
  • 版型: キンドル版・単行本
  • 価格(税込): Kindle版:2,926円、単行本:3,080円

 

ウイルス侵入の機序

ウイルスには核酸としてDNAを持つものとRNAを持つものがある。天然痘ウイルスやヘルペスウイルスはDNAウイルスであり、インフルエンザウイルスや麻疹ウイルスや新型コロナウイルスRNAウイルスである。

ウイルス粒子が宿主の細胞の外に存在する時、それは単なる物質の塊である。

細胞内にウイルスが侵入すると、細胞のタンパク質分解酵素によりウイルスの殻(カプシド)が分解されて内部の核酸が露出する。ウイルスの核酸とタンパク質はバラバラになり、ウイルスは消えてなくなってしまう。(かのように見える。)この時期のことを「暗黒期」(eclipse period)と呼ぶ。細胞にウイルス接種後、感染細胞内にウイルスが検出できなくなる期間であり、暗黒期は別名で「エクリプス」、「陰性期」とも呼ばれる。エクリプスとは天文学用語で、日食や月食などの「蝕」のことで、天体が隠れる現象を指す。ウイルスが補足し難く、とらえどころのないものとして一般に受け取られがちな理由は、こうしたウイルス特有の感染プロセスの奇態さから来ている。

DNAウイルスの場合、核酸はA・T・G・C、すなわち、アデニン・チミン・グアニン・シトシンという塩基がつながってできている。

RNAウイルスの場合には、T(チミン)の代わりにU(ウラシル)が使われるという。たとえば、RNAウイルスの麻疹ウイルスの場合、塩基記号が1万5千個ならんでいて「タンパク質の設計図」となっている。

この設計図に従って、細胞の酵素はウイルスタンパク質やウイルス核酸を大量に合成させられてしまう。この大量合成された核酸とタンパク質から、ウイルス粒子が組み立てられる。この段階で「暗黒期」が終わり、感染性ウイルスが細胞から大量に放出される。

ウイルスの「暗黒期」について著者は言う。「暗黒期は生物には見られない。暗黒期はウイルス増殖に独特の過程で、親ウイルスがいったん忍者のように姿を消したあとに子ウイルスが生まれる」

多くの場合、たった1個のウイルスが細胞に感染すると、5~6時間で1万個を超す子ウイルスが生まれるという。

 

ウイルスはどのような条件下で不活化するのか?

新型コロナウイルスが猛威を振るう中で、一般の人々が一番知りたいことは、ウイルスの不活化(感染力が失われる状態)はどのような条件で達成できるかということだろう。

本書にはそれが詳細に記されている。

ウイルスの感染力は、一般に、摂氏60度でなら数秒で半減するという。つまり、少なくとも温泉卵ができる温度(摂氏65度で卵の黄身は固まる。白身が固まるのは75度。)以上で加熱すれば、たとえ食材にウイルスが付着していても感染力は失われてほぼ安全に食することができるということを意味する。

ウイルスは、摂氏37度なら数分で、摂氏20度なら数時間で、摂氏4度でなら数日で半減するという。(ただし、ノロウイルスのように、外界で長期間生存するという例外的存在もある。またノロウイルスの場合はアルコール消毒は効かず、次亜塩素酸水での消毒が有効とされる。)

また、ウイルスは、紫外線や薬品などでも容易に「死ぬ」(不活化)という。生物の定義に入らないウイルスは「死ぬ」という言葉は正確ではないため、専門的には「不活化」と言う。

(ウイルスが生物であるか物質であるかについては筆者の別項参照: 「ウイルスとはいったい何なのか?生物か物質か?」 )

ウイルスが紫外線で「死ぬ」ということは、咳やくしゃみと共に体外に放出されたウイルスは太陽の紫外線ですぐに不活化されるということである。大気中のオゾンの酸化作用も有効であるという。また、インフルエンザウイルスなどのエンベロープウイルスは洗剤で容易に不活化されるという。手洗いが如何にウイルス感染防止に有効であるかということは、こういうことである。

ただ、ここで筆者(レビュアー)が抱いた疑問であるが、太陽の紫外線でウイルスが不活化され、大気中のオゾンの酸化作用もウイルスの不活化に役立つとすれば、各自治体がコロナウイルス対策で推し進めている桜開花時期の「花見」の中止は、科学的知見にもとづいた施策ではなく、あくまでも政治的メッセージに衝撃的付加価値を付与するための政治判断なのではなかろうかという疑念であった。少なくともこうした政治的決定プロセスにはもっと多くの専門科学者の知見を直接的に反映させる必要があるように筆者は想像する。ただし、紫外線で不活化したウイルスも、細胞内で他の各ウイルスの損傷を受けていない部分(部品)が再利用再構築されて、まるで「フランケンシュタインのように」感染力を持った子ウイルスとして復活する可能性も理論的にはありうるということで、その意味では紫外線はウイルスを不活化するという事実だけをもってして、「屋外の花見は安全である」とは言い切れないことも事実のようだ。

 

ウイルス研究に多大な貢献をしてきた日本

ウイルスは19世紀末に初めて発見された。細菌学では光学顕微鏡による目視確認が不可欠であったが、19世紀末に光学顕微鏡では見えない病原体(ウイルス)が存在することがわかったのだ。それ以来、研究者たちは、動物に病気を起こす力や最近を溶かす力(ウイルス本体ではなくてウイルスが細胞に残した痕跡)だけを目印としてウイルスの研究を進めてきた。ウイルスが目視で確認できるようになるのは、電子線を用いて測定対象物の拡大像を得るという電子顕微鏡の誕生まで待たなければならなかった。

ウイルス研究における最大の成果は、1980年に宣言された天然痘の根絶だった。これまでに根絶に成功したウイルス感染症は、天然痘と牛疫だけだという。牛疫は四千年前のエジプトのパピルスにも書かれているウシ(牛)の致命的ウイルス感染症で、しばしば農耕の重大な担い手だったウシを全滅させたために世界各地で飢饉をもたらしてきた。(麻疹ウイルスは、この牛疫ウイルスがヒトに感染した結果生まれたと考えられているという。)牛疫は、2011年に根絶宣言が発表された。牛疫の根絶には、第二次大戦中、釜山にあった朝鮮総督府獣疫血清製造所で中村稕治が開発した弱毒ワクチンが大きく貢献したという。中国や韓国をはじめとするアジア地域各国の牛疫の根絶は中村ワクチンによるものだったという。日本人研究者がウイルス悪疫の退治に重大な役割を果たしてきたわけだが、実は、インフルエンザウイルスを最初に発見したのも日本人科学者の山内 保(T. Yamanouchi)だったという。「山内」という同じ姓であっても本書の著者(山内一也)とは無関係とはいうものの、テキサス大学の教授から著者あてに「あなたの親戚だと思うのでT. Yamanouchiの写真を送ってほしい」という依頼がきたという。T. Yamanouchiは、1918年にスペイン風邪が大流行した際にインフルエンザの原因がウイルスであることを「ランセット」誌に発表していた。

 

ウイルスの起源は?

ウイルスの起源について、オーストラリアのマクファーレン・バーネットは1944年に以下の三つの仮説を提唱した。

  1.  細胞から逃亡した遺伝因子。
  2.  細胞や生物が出現する前の時代の面影をとどめたもの。
  3.  細菌のような病原微生物が退化した子孫。

これらの仮設は、現在でもウイルスの起源についての議論の三本柱であり続けているという。

上記の仮説3つのうち、仮説1と3では、細胞が先に存在したことになり、また仮説2では、ウイルスが細胞よりも先に存在したことになる。「細胞は生物・生命であり、ウイルスは生物・生命ではない」というのが、現在の学会や教科書での主流派の説となっている。しかし、進化生物学者のジョン・メイナード・スミスは、生命を「増殖、遺伝、変異の性質を持つ実体」と定義しており、この条件であれば、ウイルスも生命ということになると著者は言う。

 

ウイルス生物兵器化の悪夢、そして希望

天然痘は1980年に根絶が宣言されたが、天然痘ウイルスは廃棄されずに、米国とロシアの研究所で保管されているという。テロリストによる盗難や過失によるウイルス流出の危険性を唱えるグループと、国家安全保障のために研究の余地を残すべきだという主張は真っ向から対立してきた。WHOは、天然痘ウイルスのゲノムの20%以上を作成することを禁止しているが、規制には抜け穴があるという。2018年、カナダのデイヴィッド・エヴァンスらは馬痘ウイルスを構築したと発表したが、馬痘ウイルスのゲノムには、天然痘ウイルスの遺伝情報がほぼすべて含まれているという。また、合成生物学の進展は、自然界の天然痘ウイルスよりも広がりやすく治療薬に抵抗するようにデザインされた危険性の高いウイルスを合成しうると「ネイチャー」誌は警告していた。

新型コロナウイルスの流行で、多くの学者が生物兵器説を否定する中でもこうした生物兵器由来という疑念がくすぶっている背景には、新型コロナウイルスが最初に発生した中国武漢に「P4レベル」の国立ウイルス研究所が存在したという事実と共に、こうしたウイルス生物兵器化の可能性が公衆衛生専門家たちにとっての重大な懸念となってきたという事実も相まって存在しているのである。

ウイルス研究やウイルス加工技術の急速な進展にはその技術の悪用という懸念もあるものの、ウイルスで がん(癌)細胞を溶解するという人類にとって希望がある研究も行われている。これは、リンパ性白血病の患者が麻疹にかかったあとで症状が軽快したことなどからわかったウイルスによるがん細胞溶解の機序だった。乳がん・肺がん・大腸がん・すい臓がんなどを標的とした がん溶解性麻疹ウイルス開発と臨床試験に向けた研究が日本の東京大学医科学研究所などで進められている。

本書の著者の山内一也氏は東大農学博士で、北里研究所所員や国立予防衛生研究所室長や東京大学医科学研究所教授などを経て、現在、東京大学名誉教授、ベルギー・リエージュ大学名誉博士である。日本のウイルス学研究の先端を歩み続けてきた著者のウイルスについての話は専門性に富みながらも一般の人でも比較的容易に理解できる文章となっているのは、実に著者がウイルス学の広範な歴史全般と各国の膨大かつ様々な研究に知悉しているからこそできる技なのであろう。

書名につけられた「意味論(semantics)」とは、言語学では「言語の意味現象を研究する分野」のことで、論理学では「記号の解釈と真理概念を扱う分野」のことである。本書はその書名の通り、ウイルスの意味・現象・解釈をするのに近道となる本だと思えた。Kindle版で2,926円、単行本で3,080円という価格はちょっとだけ高いようにも書を取る前には一瞬感じたが、この広範で深い内容が学べると思えば、むしろ安いだろう。

外出自粛という「引きこもり」が要請されるなかで、こういう読み応えのある正統派の本を手にして情勢を科学的に概観するのも、時勢の機縁のひとつかもしれない。

 

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石川 雅一

石川 雅一

 東証ペンクラブ 会員。学校法人評議員。 元日本放送協会で国際報道に従事。アフガニスタン内戦、カシミール内戦、パンチャヤト大暴動( ネパール)、湾岸戦争、アメリカ航空宇宙局(NASA)、国連安全保障理事会、ニューヨーク市警、米国核廃棄物、ロスアラモス国立研究所、米国海軍、米加漁業紛争、京都の歴史文化伝統産業などを取材。国際機関アジア太平洋放送開発機構講師(JICA専門家)としてクアラルンプールでアジア各国の放送局のジャーナリストを育成指導。金融市場分析のテクニカルアナリストとして日本の全産業三千数百社の上場企業のテクニカル分析をダイヤモンド社で三季にわたって完遂。  早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程中途退学。早稲田大学大学院商学研究科専門職学位課程修士(研究科長賞受賞)。MBA( Le Cordon Bleu; Global Service Business, WBS)。Certified Financial Technician(CFTe Ⅱ)。 一級小型船舶操縦士、剣道初段、趣味は能楽。

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