『サイエンス・ビジネスの挑戦』 ゲイリー・P・ピサノ
- 著者: ゲイリー・P・ピサノ, 池村千秋 訳
- 言語: 日本語版
- 出版社: 日経BP社
- 発行日: 2008年1月28日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 単行本:2,420円
サイエンスを基盤とする創薬産業の研究
本書のタイトル「サイエンス・ビジネス」とは、科学(サイエンス)研究を創薬に生かす製薬・バイオテクノロジー企業を指す。
著者はハーバード・ビジネススクール教授(テクノロジー&オペレーションズ・マネジメント部門の責任者)である。アムジェン、バイオジェン、メルク、ノバルティス、ファイザー、ロシュなど数多くの創薬企業にアドバイスしてきた。
まず、著者が唱える「サイエンス・ビジネス」の定義だが、単にサイエンスを利用しているだけではサイエンスに基盤をおいているとは言えないと著者は言う。「サイエンスの創造と進歩のプロセスに積極的に参加し、しかもその企業の経済的価値のかなりの部分は、その会社の基礎となるサイエンスの質によって決まる」という定義に照らすと、バイオテクノロジー企業ほどそれに当てはまる企業はないと著者は言う。
こうしたサイエンス・ビジネスの経営を考えた時、企業の基本的なニーズについては他のビジネスと変わらない部分もある。ヒト・モノ・カネが必要という点だ。しかし、サイエンスに基礎を置くビジネスが突きつける「課題」はほかに例のないものであって、これまでとは異なる組織形態や制度、マネジメント手法が求められていると著者は主張する。
サイエンス・ビジネスが突きつける三つの「課題」は、次のようなものとしている。
- バイオテクノロジーというサイエンスに重度の不確実性がついて回るため、リスク管理と引き受けたリスクに応じて利益を分配するメカニズムが必要なこと。
- ビジネスの基盤となる科学的知識の複雑性と学際性が極めて高く、学問分野や専門分野の垣根を越えた「すり合わせ」が欠かせないこと。
- サイエンスの進歩のペースが速く、学習の積み重ねが不可欠なこと。
創薬分野の科学革命
1970年代以降に次の三つの新しいテクノロジーが登場して、新薬候補の化合物の数と種類が飛躍的に増加した。
- タンパク質をつくる遺伝子組み換え技術。
- モノクローナル抗体をつくるハイブリドーマ技術。
- 大量の新しい化学物質を合成することを容易にするコンビナトリアル化学。
その後、次のような新しい研究分野が進展した。
- ゲノミクス ・・・ 生物の塩基配列と遺伝子の機能を解明する研究分野。
- プロテオミクス ・・・ たんぱく質の構造と機能解明を目指す研究分野。
- RNA干渉 ・・・ DNAからメッセンジャーRNAへの情報転写をもとにタンパク質を作るプロセスに干渉して遺伝子発現を抑える研究分野。
- システム生物学 ・・・ DNAチップなどのツールを利用して生体の部品としての遺伝子発現をすべて調べてアルゴリズムで処理解析し、システムとしての遺伝子相互の関わり合いを探索する研究分野。
華々しい期待を裏切ってきた利益の低迷
上記のような様々な先進的なバイオ技術開発が華々しく報道されてきた中で、こうしたバイオテクノロジーを基盤にする産業は、未来社会をけん引する大産業になると期待されてきた。
しかし、あふれていたバラ色の予測は次第に疑念と当惑に埋まっていった。著者ピサノは、株式を上場させているアメリカのすべてのバイオテクノロジー企業の財務成績を調べてその合計値をはじき出してみた。その20年数値を見ると、売上は倍々ゲームで伸びているのに、利益はほぼ一貫してゼロ、もしくは若干のマイナスのままだった。
しかも、研究開発の効率も予想を裏切り、そんなに高くはなかったのである。
著者が本書を書いた目的は、バイオテクノロジー産業の期待と現実の間に横たわる深い溝の性格と原因を探ることにあった。
バイオテクノロジーのビジネス化の困難さ
バイオテクノロジーの研究開発をする企業が利益をあげるためには、知的財産権の収益化のメカニズムが必要となる。そこで現在活用されているのが、ベンチャーキャピタルと株式市場だ。
ベンチャーキャピタルは資金を提供するだけでなく、取締役を派遣して経営を監督する。ベンチャーキャピタリストは、通常3年の期間をめどに投資を行う。しかしながら、バイオテクノロジー企業が最初の医薬品を市場に送り出すまでには最低でも8年~12年はかかる。ベンチャーキャピタルの投資だけでは資金が到底足りないので、バイオテクノロジー企業は株式市場への上場(IPO)で資金調達を目指す。だが、典型的なバイオテクノロジー企業は株式市場による企業統治には適さないと著者は言う。株式市場に替わる新たな資金調達の手段として浮かび上がったのは、バイオベンチャーの知的財産を大手製薬企業が買う「ノウハウの市場」だった。
「ノウハウの市場」の活用は、ソフトウェア産業や半導体産業では機能がうまく機能している。その理由は次の二つの理由だと著者は言う。
- ソフトウェアや半導体では、製品設計がモジュラー型で、部品間の標準的インターフェースが明確である。
- ソフトウェアや半導体では、設計図やコード量などの形で、テクノロジーを形式知として伝達できる。
しかし、バイオテクノロジーの分野では、次のような状況だ。
- バイオテクノロジーでは、生体情報のジグソーパズルの断片はモジュラー型とはほど遠く複雑で、相互に重層的に絡み合い可変的である。
- バイオテクノロジーには、暗黙知の側面が極めて大きい。薬物標的や分子の態度作用を完全に言語化したり「XであればYである」と単純化して示すことができない。
形式知的な性格の強い知識はおおむね模倣によって学習できるが、暗黙知的な性格の強い知識は経験を通じて学ばなくてはならない。その結果、すり合わせ、経験を通じた学習などの課題はあまり達成できていないと著者は言う。
著者は結論で、「鉄道と電信・電話が近代企業を必要とし、半導体とソフトウェアがベンチャーキャピタルを必要としたように、バイオテクノロジーも組織と制度のイノベーションを必要としている」と述べる。
もっと明快な解決策としての結論を望んでいた読者にはやや不完全燃焼の感を残すかもしれない。実際に書評者にはそう感じられた。しかし、バイオテクノロジー産業という新たなサイエンス・ビジネスの生態系と問題点を抉り出した本書の意義は極めて大きいし、そのパイオニア的な労苦は大きな称賛をもってねぎらわれるべきである。