『勤勉な国の悲しい生産性』 ルディー和子 著
- 著者: ルディー和子 著
- 出版社: 日本実業出版社
- 発行日: 2020年6月10日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): ¥1,870-
「生産性」という常識の再考を求める書
「生産性の向上」は唱えるべきお題目になっている。本書は、その「生産性」という常識の再考を求める書である。
著者のルディー和子は、米国化粧品会社のマーケティング・マネジャーや米国出版社のダイレクト・マーケティング本部長を経て、早稲田大学商学学術院客員教授や立命館大学大学院教授などを歴任してきた。マーケティングの実務とアカデミアの両方の経験を持つ。ダイレクト・マーケティングが専門分野であるが、ミクロ経済学のみならず、マクロ経済学にも知見を持つようだ。著者の視野は古代ギリシャまでさかのぼり、プロテスタントと浄土真宗、そして、アダム・スミスの古典派経済学やベンサムの功利主義まで引き合いに出すほどに広い。
本書の章立ては、以下のとおりである。
- 「生産性向上!」は時代錯誤
- 「時短」ではなく、「時間」からの解放感
- 「調和」と「不公平感」がつくる会社組織
- 日本人は「勤勉DNA」をもっているのか?
- AIが人間から奪う仕事は(49%ではなくて)わずか7%
- 経営者の仕事は社員に夢を見させること!
「生産性向上」は時代錯誤
著者によれば、「労働生産性」の概念は統計数値の詐術だという。
労働生産性の国際比較に使っている算出方法は、各国のGDP÷国の1年間の平均就業者数(または就業者数×労働時間)であり、だから景気が悪くなるとすぐに従業員を解雇できるような国では、失業率は悪化するものの、就業労働者数が減少するので生産性が向上するという不思議が生じると著者は批判する。
著者の疑問は続く。OECD加盟国36ヵ国中で21位(2018年)という日本の就業者ひとりあたりの労働生産性だが、だいたいこの統計で1位がアイルランドで2位にルクセンブルクが並んでいるのも解せないと不信感をあらわにする。GDP1位の米国、3位の日本、4位のドイツよりも生産性が高いというのはいかがなものかという。
GDP÷労働投入量(就業者数×労働時間)=生産性 なのだから、GDP=生産性×労働投入量 となる。政府や経済界が生産性向上を必死になって訴えるのは、結局はGDPの成長を維持したいからだと言う。GDPが成長すれば、国民もよりよい生活ができるようになるというのがこれまでの考え方であり、確かに戦後の欧米や日本や高度成長時代の中国ではそういう実感(親世代よりも豊かになったという感覚)もあったが、GDPの数字と国民が感じる暮らしの感覚との乖離は年々大きくなっていると著者は言う。その乖離感覚のひとつの理由は、格差の問題である。ノーベル賞を受賞した米国経済学者のジョセフ・スティグリッツは、国民1人当たりのGDPではなく、所得の中央値(平均値ではない。有限個のデータを小さい順に並べたとき中央に位置する値)を使ったほうが、米国の過去数十年の進歩の実態を知ることができると言っているのだという。たとえば、2000年~2008年でGDPは成長しているが、世帯所得中央値は4%落ち込んでいることがわかるという。また、デジタルサービスは現代の経済社会に巨大な価値を提供しているにもかかわらず、無料のサービスであるがゆえにGDPには算入されないという由々しき問題もあるという。
広い知見と驚きに満ちた書
日本人は諸外国からワーカホリックだとみられている。筆者(書評者)自身も東欧の人との会話の中で、そのことについて訊かれたことがある。
しかし、本書には、「江戸時代の日本人は怠け者だった!」とある。江戸時代末期に日本を訪問した外国人たちの記録を読むと、日本人は「怠惰(たいだ)」で、「無精者(ぶしょうもの)」だと記録されているのだという。少なくとも、当時の日本人に対する欧米外国人の感想は、今の「ワーカホリック」という印象とは180度逆だったというのである。
著者は、時計が産業革命を用意したという。そもそも機械式時計は祈りの時間を修道士に伝えるためにつくられたが、やがて16世紀の英国では、時計は時間で労働者を縛ることに使われ始めた。時計の歴史は生産性の歴史でもあるという。
本書巻末には、「参考・引用文献」で二百冊以上の書名が掲載されている。筆者の広い知見の源泉をみるようで興味深い。
本書は、常識の再考を迫る刺戟的な書であると感じた。