『パール判事の日本無罪論』 田中正明 著
- 著者: 田中正明 著
- 出版社: 小学館
- 発行日: 2019年11月7日
- 版型: キンドル版・新書
- 価格(税込): Kindle版:¥880、 新書:¥880
軍事プロパガンダショウ「東京裁判」
本書は、1963年に出た『パール判事の日本無罪論』(慧文社刊)「旧版」を新たな版としたものである。この新版では、「旧版」に注釈を補し、作家の百田尚樹氏が巻末に論考を付している。
東京裁判、つまり「極東国際軍事裁判」は、文字通り「軍事裁判」であるから、戦勝国が敗戦国を一方的に裁く法廷であった。しかし、それにもかかわらず、戦勝国11人の判事のうち、たったひとりだけ、インド代表判事のラダビノード・パール( Radhabinod Pal)博士だけが、日本人被告全員の無罪を主張した。日本による大東亜戦争を経てインドは2百年余りの英国による植民地支配からの解放を目指して独立運動が盛り上がっていた。インドのネール首相は最も尊敬していたカルカッタ大学総長のパール博士を「極東国際軍事裁判」のインド代表判事として東京に送った。1946年に東京に着任したパール博士は、ほとんど帝国ホテルの自室に閉じこもって資料や書籍を海外から取り寄せては調査と著述に専念したのだという。博士が東京着任後2年半の間に読破した資料は4万5千部、参考書籍は3千冊に及んだという。如何にパール博士が国際法に基づいて国際正義の観点から公正な判決を下そうと熟慮考究していたかがしのばれる。1948年11月、無罪の判決を下したパール判事以外の全ての判事は有罪判決を下したが、パール判事は次のような言葉をこれに対して残している。
「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないようなやり方は、国際正義の観念からは程遠い。こんな儀式化された復讐劇は、瞬時の満足感を得るためだけのもので、究極的には後悔をもたらすことは必然である」
戦勝国の罪は裁かないと裁判長
「極東国際軍事裁判」の裁判長であったウィリアム・ウェッブ(Sir William Flood Webb: オーストラリアの裁判官)は、この裁判は敗戦国日本を裁く軍事法廷なので、連合国側の責任に関する問題は一切取り上げないとして、連合国側に責任がある人道上の重大問題や弁護人側の言い分は全て却下された。
東京大空襲や2発の原爆投下による民間人大虐殺という罪は、ウェッブ裁判長が言ったように、戦勝国だからという理由で裁かれないのだった。この不公正さに対して、パール判事は次のように述べた。
「もし非戦闘員(民間人)の生命財産の無差別破壊というものがいまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては原子爆弾使用の決定が、第1次大戦中におけるドイツ皇帝の指令、および第2次大戦中におけるナチ指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで十分である。このようなものを現在の被告(日本人たち)に見出すことは出来得無い」
日本無罪を判決したパール博士はそののち日本から勲一等瑞宝章を受章したが、皮肉なことに、東京大空襲を企画し原爆投下を指揮したカーチス・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)米国空軍大将は勲一等旭日大綬章を受章した。
パール判決は欧州では一面記事、日本ではベタ記事
「極東国際軍事裁判」におけるパール判事の日本無罪判決は、ヨーロッパ諸国では大ニュースとして新聞一面で大々的に取り上げられるトップニュースになったという。これは欧州で社会的に大変なセンセーションを巻き起こし、フレンド派などのキリスト教団体や、国際法学者や平和主義者の間に大きな共感を呼んで、論争が紙面を賑わわせたのだという。ところが、東京裁判が行われた当事国の日本の新聞では、ほんの数行で紙面の端のほうで簡略に触れられただけだった。なぜならば、当時の日本は占領下にあり、新聞報道の全てはGHQの検閲下にあったからである。ところが、その後占領が解かれて日本が独立した国となったにもかかわらず、日本の新聞メディアは、当時の占領下で報道検閲をされていた時と同じ態度で、国際法無視の軍事裁判プロパガンダに沿った報道を続けているのはいったいどうしたことだろうか、と田中正明は言う。
マッカーサーも後悔した東京裁判
東京裁判を強行し演出したとも言われているダグラス・マッカーサー元帥はそののち、かつて南太平洋で日米両軍が激戦を繰り広げたウェーク島で、1950年10月にトルーマン大統領と会談を行った。この時、マッカーサーは「東京裁判は間違いだった」と言い、極東国際軍事裁判の判決を強く批判したという。パール判事が「こんな儀式化された復讐劇は、瞬時の満足感を得るためだけのもので、究極的には後悔をもたらすことは必然である」と言った予言は、裁判結審から2年も経たない内に現実化したのだった。
このマッカーサーの心変わりがなぜ起こったのかは、当時の国際情勢を見ると明らかに描写されるだろう。このウェーク島会談が行われたのは、朝鮮戦争の仁川(インチョン)上陸作戦のわずか1か月半後だった。北朝鮮軍を支援して中国人民解放軍が突如参戦して北朝鮮軍に加勢すると、米軍はその勢いに押されて朝鮮半島を南へと潰走した。この人民解放軍を北へ押し戻すためには、敵後方の仁川上陸で敵の兵站を切るしかないとマッカーサーは考えた。また、名目上は参戦していない筈のロシア人パイロットが操るミグ戦闘機が、半島上空で米軍戦闘機と格闘戦を交わしていた。(流暢なロシア語が無線傍受されていた。)東京裁判で日本を魔女裁判のように共に吊るしあげたソ連と中国が、今や米国と直接砲火を交わす宿敵に変わったのだった。一方で、仁川上陸作戦では黄海の潮汐地形情報に精通していた元大日本帝国海軍軍人が米軍の作戦立案に影で参画していた。
ウエーク島会談の翌年1951年5月には、マッカーサーは、米国上院軍事外交委員会で次のように証言した。
「日本には、蚕(カイコ)を除いては国産の資源は何もありません。石油などの供給が断たれた場合には、1千万人以上の失業者が出る恐れがあったのです。日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」
石油を絶ったのは米国である。日本の戦争は米国に追い詰められた末の戦争だったと、マッカーサーは米国上院で証言したのだった。
2百年間の英植民地支配とインド
著者の田中正明氏は1911年(明治44年)生まれで、戦前は活動家としてアジア解放運動に従事した。戦後は新聞編集長、ジャーナリスト、作家として、また国際平和協会の役員として活躍してきた。
田中正明氏は、パール博士が「日本国民よ卑屈になるな、劣等感を捨てよ、世界の指導国民たる自負を以て平和と正義のために闘え」と訴えているという。そして田中氏は次のように述べた。
「我々は博士の法理論に学ぶと共に、この博士の権力に対する不服従の精神、2百年間の大英帝国の植民地統治を経てインドの宗教と文化を敢然として守り抜き独立を勝ち取ったインド民族の強靭なる土性骨(どしょうぼね)に学ぶべきではなかろうか」
本書を読むと、「東京裁判」こと「極東国際軍事裁判」当時の様子が生々しくわかる。現行憲法に賛成であれ反対であれ、日本人ならば一度は読んでおくべき書のひとつだと思う。
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文庫「旧版の復刊」