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大峯千日回峰行

2020年10月19日

『大峯千日回峰行 修験道の荒行』 塩沼亮潤, 板垣興宗 著

  • 著者: 塩沼亮潤, 板垣興宗 著
  • 出版社: 春秋社
  • 発行日: 2007年3月15日
  • 版型: 単行本
  • 価格(税込): 単行本: ¥1,980-

 

比叡山千日回峰行と大峯千日回峰行との違い

前回の書評「満行か死か。生死をかけた千日回峰行」で光永覚道氏の『千日回峰行』をご紹介したが、今回ご紹介するのは、塩沼亮潤氏の『大峯千日回峰行』である。

前回の光永氏は比叡山の千日回峰行であり、塩沼氏の修行は奈良の吉野山近辺の大峯山(大峰山)における千日回峰行である。いずれも峻烈きわまりない過酷な修行であるが、どう違うのかについてまず述べたい。このあたりの両者の違いについては、本書にはあまり詳細には触れられていない部分である。

比叡山の千日回峰行は標高差550メートルという上ったり下ったりの比叡の山中を1日に7里半、つまり1日に30km歩く。7年間かけて千日間歩くが、そのうち最初の3年間は1年ごとに100日だけ歩く。4年目は200日歩き、5年目で200日歩く、そして堂入りがある。6年目で100日歩き、7年目は200日歩く。そしてそのほかにやるのは、1年に一回の京都切廻りと葛川参籠(かつらがわさんろう)である。

これに対して大峯千日回峰行は、奈良県吉野山にある金峯山寺蔵王堂(きんぷせんじざおうどう: 標高354m)から24㎞先にある山上ヶ岳(標高1719m)頂上にある大峯山寺本堂まで、標高差1355mある山道を往復48㎞、1000日間歩き続ける。毎年5月3日から9月3日まで年間4ヵ月を行の期間としているので、9年間の歳月を要する。つまり、比叡山の標高差550mに対して大峯山は標高差1355mと、大峯のほうがほぼ2.5倍近い標高差があり、1日に歩く距離も大峯のほうが1.6倍も長い。比叡山の千日回峰行が7年間かかるのに対して、大峯の千日回峰行は9年間もかかるのである。そして、後半に比叡山のほうは比叡山無動寺谷(むどうじだに)の明王堂に入って、9日間、断食、断水、不眠、不臥(体を横に寝せない)で不動明王の真言を10万回唱えるという「堂入り」の修行があるが、大峯山のほうも、蔵王堂で行われる「四無行」(しむぎょう)と言って、断食、断水、不眠、不臥の4つの「無」の行を9日間続けるという同様の修行がある。大峯山のほうは、やはり不動明王の真言を10万回唱え、それに加えて吉野山の本尊である蔵王権現(ざおうごんげん)の真言を10万回唱えなければならない。

比叡山の「堂入り」も大峯山の「四無行」もどちらも9日間であるが、その理由を塩沼氏は次のように言っていた。

「10日間だと死んでしまうから9日間なのです」

比叡山の「堂入り」も大峯山の「四無行」も、どちらも修行者を生死の限界まで追い込むことで、修行者を生き仏とすることを狙っているようにみえる。

 

比叡山の千日回峰行は天台宗が行っているが、大峯千日回峰行は、修験道の金峯山寺が執り行っている。

比叡山の千日回峰行は平安時代前期の相応和尚(そうおうかしょう)が始祖となる行である。織田信長による比叡山焼き討ち以降から数えても、千日回峰行を満行した阿闍梨は50人ほどしかいないという(比叡山焼き討ち以前の記録は焼失している)。これに対して、大峯の回峰行は、おそらく奈良時代頃からの長い歴史があろうが、千日という修行にシステム化されたのは、大峯の山道ルートが近世になってから開発されて以降、比叡山の千日回峰行の影響を受けて開始されてからのこととされる。そういう事情もあるのだが、大峯千日回峰行を満行したのは、奈良時代以降の長久なる修験道の歴史の中で、塩沼亮潤氏でたった2人目にすぎない。

比叡山の千日回峰行も、大峯千日回峰行の場合も、一旦行を始めたならば修行の挫折は許されない。比叡山の場合と同じく大峯の場合にも、もし歩き続けられなくなったならば、持っている短刀で割腹自決しなければならないという覚悟で回っているのだという。

 

曹洞宗の板橋興宗氏との縁

本書『大峯千日回峰行』は、前回の書評の光永覚道氏の『千日回峰行』と出版社は同じ春秋社からの刊行である。本書も前書と同じくインタビュー形式でまとめた編集となっている。本書のインタビュアーは、曹洞宗元管長の板橋興宗氏(1927~2020)であるが、板橋氏が実に機知に富んだ質問をしているのに私(書評者)は感心させられた。これだけ機転の利いたインタビューというのができる人は一流のジャーナリストでも滅多にない。本書は、ジャーナリストを目指す人にとってはインタビューの教科書になるのではなかろうかとも思えた。

曹洞宗元管長の板橋興宗氏と塩沼亮潤氏との縁は、板橋氏が平成11年9月の読売新聞で塩沼氏の修行の記事を読んで深い感銘を受け、板橋氏が塩沼氏に手紙を送ったのだという。1回目の手紙に返事はなく、その後、比叡山千日回峰行の酒井雄哉阿闍梨から「あの人なら仙台にいる」と聞いて再び手紙を書いたが、2度目も返事がなかった。その理由は、行者は行の最中は人と話すことは禁止で、手紙もテレビも新聞も雑誌も禁止。親が死んでも行者には知らせるなという掟があるほど外部との接触を禁じられているため、手紙をもらっても返信することが出来なかったのであった。それでも塩沼氏は2通の手紙を大切に保存し、返信ができなかったことをお詫びして、いつか板橋氏に会いたいと胸に秘めていた。

本書の章立ては、次のようになっている。

  1.  出家に至る日々
  2.  破天荒の荒行
  3.  死の極限・四無行と八千枚大護摩供
  4.  修験道の世界
  5.  「行」に生きる

 

貧・病・争の少年時代

塩沼亮潤氏は、お寺の子息に生まれたわけではなかった。仙台で、ひどく貧しい家庭に生まれた。父親は母親に暴力を振るい、家にお金を全く入れなかった。小学校の時、母親は心臓病でほとんど寝たきりになった。中学の時にはパチンコ屋に行っては玉を拾ってそれを打ち、十中八九、味噌・米・醤油・砂糖などの景品を取っては家に持ち帰っていたのだという。本書にはその当時のパチンコ必勝技法までが記されている。中学校の時の成績はビリから2番目だった。友人がビリだったという。それでも何とか東北高校に合格して入学できた。東北高校は甲子園野球の名門校で、ロサンゼルス・ドジャースのダルビッシュ有やフィギュアスケート選手の羽生結弦の出身校でもある。やはり東北高校でも最初は学業成績が悪かったが、教師から呼び出されて、「お前の知能指数すごいぞ。少しは勉強にも身を入れてみろ」と言われて勉強するようになった。そうすると、今度は成績がトップから2番目に急浮上したのだという。

山岳宗教を志したのは、小学校5年生の時にテレビで比叡山の酒井雄哉阿闍梨の千日回峰行が放映されて、それに魅入られたのがきっかけだという。酒井阿闍梨にあこがれていたので比叡山に上ろうと思っていたが、何の縁か知り合いからたまたま金峯山寺の「寺報」をもらった。奈良の吉野山にも比叡山に増して厳しい千日回峰行があることを知り、高校を出たら金峯山寺の門を叩くことにしたのだという。

高校を出て金峯山寺に出発する日の早朝、母親が味噌汁を作ってくれた。それを飲み終わると、母親はその空になった茶碗と箸をごみ箱に捨て、「もうお前の帰ってくる場所はない。しっかりと修行してきなさい」と言ってくれたのだという。

金峯山寺ではまず修験行院(しゅげんぎょういん)への入学が許され、最初は箒と雑巾を持って最初の3~4年は朝から晩まで掃除と草刈りばかりだった。その後は漢文・仏教学・弓道・書道・茶道・声明(しょうみょう)・悉曇(しったん)を学びながら朝夕の勤行(ごんぎょう)に集中した。そうした基本的な日常の修行と学びの数年間を経て、ようやく回峰行に入ることが許された。私(書評者)がこれを読んで驚いたのは、修験行院の授業科目に「弓道」があることだった。弓道以外の漢文・仏教学・書道・茶道・声明・悉曇は全て仏教に関係する事ことだからわかるが、殺生にも通ずる武道、それも荒法師がよく手にした防御的な薙刀(なぎなた)ではなく、平安時代以降の武士のトレードマークとも言える攻撃的な弓道というのが意外であった。これも、歴史をかえりみれば、「北朝」に対する吉野山の「南朝」防衛の伝統ということなのだろうか。

 

回峰行で出会った不思議

比叡山の千日回峰行では修行者は丑三つ時の深夜3時ごろから行燈(あんどん)で足元を照らしながら草鞋ひとつで歩くが、大峯千日回峰行では比叡山よりも歩く距離が1.6倍も長いだけに、夜11時半に起床して滝で潔斎してから白装束に身を包み草鞋をはいて行燈を手にすると、比叡山よりもずっと早い深夜零時半に出発する。片道24kmの登り路を8時間かけて大峯山山頂にたどり着き、そこでおにぎり2つと水だけという朝食を取って復路24kmを戻ってくる。1日48kmの険しい山岳路を1日に16時間も歩きっぱなしなのである。自分の宿坊に帰り着くのは午後3時半頃になる。それから掃除洗濯炊事と勉強と勤行を全て自ら行って夜7時に就寝。睡眠時間4時間半で、また起床して滝で潔斎し出発する。晩秋から早春は大峯は深い雪に閉ざされる。その雪がなくなる毎年5月3日から9月3日までの120日間(4か月間)、この回峰行をずっと繰り返すのである。つまり、千日間の回峰行を達成するのに9年の歳月をかけるのである。

とにかくこの時期の行が始まったならば、いかに体調が悪かろうが、足の爪が割れていようが、山頂付近で雷が横に走るような落雷が激しい時であろうが、台風で秒速40~50メートルの暴風が山頂付近の峯道で吹き荒れていようが、大雨による土砂崩れで道がなくなっていようが、行は続けなければならない。39度以上に発熱し下痢が10日間も続いた時にはさすがに辛かったという。一切何も食べられない状況だったが、それでも水を取らないと脱水症状になってしまうので、普段は500mlしか持ち歩かない水を、その時は2リットル入りの水を4本持って出かけたのだという。山中で熊や猪やマムシに出会うこともよくあるという。

不思議な体験としては、夜中に真っ暗闇の中で睡魔に襲われつつ半ば寝ながら歩いていた時に、突如足首を誰かにつかまれたように動かなくなったという。足元をよく見たら、その30センチ先は崖っぷちだったのだという。ほとんど寝て歩いているような状況でもう一歩先に歩を進めていたら断崖に落ちて死んでいたような状況で誰かに足首をつかまれて動けなくなった。不思議な力にありがたさを感じると共に、それ以来、眠りながら歩くのはしないようになったという。

金峰神社の近くで座っておにぎりを食べていた時には白い煙に包まれて金縛りになって身体が動かなくなった。すると鎧甲冑の手甲の手が両腕をつかんでいる。般若心経を唱えても効かなかったという恐怖体験もしたという。歴史を南北朝時代にまでさかのぼれば、南朝がたてこもった吉野山は、北朝の軍勢が攻めてきた古戦場でもあるので、こういう体験もさもあらんとも思えた。その鎧甲冑の武者は、おそらく北朝側の武者の霊だったのではなかろうかと、私(書評者)には思えた。

本書は様々な魅力に満ちた本である。生老病死の人生は実に困難に満ちているが、俗界に生きる我らは時折そのありがたさを忘れたり、苦しさに押しつぶされそうになって生きる意味を見失いがちである。死と隣り合わせの修行を毎日繰り返す大峯千日回峰行の描写は、私たちに生きるということの真実の意味を垣間見せてくれるように思える。本書は何度も繰り返し読みたくなる本だと感じた。

 

 

満行か死か。生死をかけた千日回峰行

 

横に臥すことも許されない過酷な修行の末に見えたもの

 

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石川 雅一

石川 雅一

 東証ペンクラブ 会員。学校法人評議員。 元日本放送協会で国際報道に従事。アフガニスタン内戦、カシミール内戦、パンチャヤト大暴動( ネパール)、湾岸戦争、アメリカ航空宇宙局(NASA)、国連安全保障理事会、ニューヨーク市警、米国核廃棄物、ロスアラモス国立研究所、米国海軍、米加漁業紛争、京都の歴史文化伝統産業などを取材。国際機関アジア太平洋放送開発機構講師(JICA専門家)としてクアラルンプールでアジア各国の放送局のジャーナリストを育成指導。金融市場分析のテクニカルアナリストとして日本の全産業三千数百社の上場企業のテクニカル分析をダイヤモンド社で三季にわたって完遂。  早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程中途退学。早稲田大学大学院商学研究科専門職学位課程修士(研究科長賞受賞)。MBA( Le Cordon Bleu; Global Service Business, WBS)。Certified Financial Technician(CFTe Ⅱ)。 一級小型船舶操縦士、剣道初段、趣味は能楽。

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