『大隈重信 中国人を大いに論ず』 大隈重信 著 倉山 満 監修
- 著者: 大隈重信 著 倉山 満 監修
- 出版社: 祥伝社
- 発行日: 2016年9月10日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): ¥1,650-
大隈重信は「ネトウヨ」の元祖か!?
本書は、大正4年に出版された大隈重信著『日支民族性論』を現代語訳した書である。原題の『日支民族性論』は、わかりやすく『大隈重信、中国人を大いに論ず』と改題してある。
監修者の倉山 満は、中央大学大学院日本史学の博士課程を出た政治評論家である。倉山は本書「はじめに」で、次のように述べている。
「本書は、支那の民族性を言い聞かせ、日本の方策を説く構成となっている。現代人が読めば、ネトウヨと断じるに違いない中身である。大隈の断定ぶりと比較すれば、安倍晋三首相など左翼リベラルとしか思えなくなるだろう」
当時の大隈内閣は、いわゆる「対華21ヵ条の要求」で内外世論の批判にさらされていた。「対華21ヵ条の要求」とは、第一次世界大戦中の1915年1月に日本の大隈重信内閣が当時の中国政府(中華民国政府)の袁世凱大総統に対して行った21の要求と希望のことである。当時、日英同盟を結んでいた日本は第一世界大戦に参戦して山東半島などでドイツ帝国と戦い、中国におけるドイツ軍を駆逐したが、日本政府としてはドイツとの休戦講和条約が成立するまでは山東膠州湾地域におけるドイツ帝国が有していた諸権益を保持する必要があった。日独間の条約締結を待たずにドイツ帝国の権益を中国に日本が勝手に返還したりすると、後に日本が逆に賠償義務を負うリスクもあったからである。そこで大隈内閣、加藤高明外相は、ドイツ帝国が山東省に持っていた権益を日本が継承し、山東省や沿岸の島々を他国に譲与や貸与しないことなどを14ヵ条の要求と7ヵ条の希望として袁世凱大総統に渡したのだった。ちなみに監修者の倉山によれば、「21ヵ条要求」という言葉自体が中華民国のプロパガンダだという。日本政府が袁世凱に突きつけたのは、「14ヵ条の要求と7ヵ条の希望」だったが、「希望」の部分も一緒にして、いかに支那が圧迫されているかを世界にプロパガンダしたのだという。
大隈重信による日清戦役の描写
第一次世界大戦での中国での日独戦争の前には日清戦争と日露戦争があった。大隈重信による日清戦争に至る描写は、袁世凱が日本を侮り切っていたところから始まる。朝鮮を名実ともに支那のものとした袁世凱はますます日本も侮った。
「当時、支那には戦闘艦が2隻あって、いずれも7千5百トンであるのに対し、日本には軍艦らしい軍艦がなく、わずかに巡洋艦が少しあるだけで、それも最も大きなのが4千トンくらいにすぎなかった。そこで示威運動として丁汝昌がその艦隊を率い、広東を出ると品川湾にやって来た。・・・日本は竹添の失敗以後、大いに忍んでいた。すると支那はいよいよ傲慢となった。ついに、明治27年の東学党の内乱から、しだいに禍因を醸成して、明治27、8年のいわゆる日清戦役となったが、これも日本にしてみれば忍びに忍んだあげく、もはや忍ぶことのできない状況に至った結果の大爆発に他ならない」
日清戦争の敗北で当時の支那には、「日本の近代化に学ぼう」という声が巻き起こった。支那からの留学生も日本に続々と来たという。
「この覚醒の先駆者は、光緒帝である。・・・ところが、このことが西太后の耳に入ると、西太后はすぐさま光緒帝を幽閉し、光緒帝の改革に参与したものはすべて排斥された。そしてその結果、日本排斥の声が盛んになった。・・・冷静に観察してみると、彼ら(中国人)が日本に学ぼうとした時期は、つねに打撃を受けたときである。ところが、この苦痛が去ると、一転して日本排斥の声となる。・・・苦痛が去れば日本を排斥し、苦痛が来れば日本を信頼する。いったい、どういった理由からなのか。そのあいだの心理状態はたいへん怪しいもので、ほとんど想像もできないほどに変態が多い」
対華14ヵ条の要求と7ヵ条の希望の経緯
対華14ヵ条の要求と7ヵ条の希望の経緯について、大隈は次のように述べている。
「日本の排斥が支那自体の力ではうまくいかないからといって、他国の力に頼ろうとする。そこでアメリカに頼りに行く。それから、特にドイツへ頼みに行く。ドイツは、支那人の心理状態を利用した。それが日本人排斥に向っていることを知ると、巧みにその機に乗じて支那への迫害を試み、とうとう山東省を占領することで、東洋の平和に対する将来の禍根を植えつけた。幸いに、日独戦争の結果、その山東にあったドイツ勢力を掃討できたのであるが、・・・支那人はかえってドイツ人を助けて、ともに日本を排斥しようとするのだ。その忘恩の態度は、まったく唾棄すべきものではないか。それがこの度の交渉においても、遺憾なく現われたのである」
この文中の「そこでアメリカに頼りに行く」というところは、実は今アメリカで問題になっている。清王朝が王朝崩壊前年の1911年に国債を発行してアメリカの投資家に売りつけた。それは中国沿岸部の浙江省杭州市と内陸部の四川省の間の約2000キロを結ぶ鉄道建設のために発行した国債だった。結局、その国債は紙くずになった。一種の投資詐欺と言っても過言ではないスキームが国家レベルで行われたことになる。当時のその国債を保有している米国人債権者らは米国トランプ政権に対して、現在の中国共産党政府が債務の返済に応じるよう交渉してほしいと要請しているのだ。債務額は現在の1兆ドルで100兆円以上にのぼるというが、中国共産党は、今の中国には関係のないことだと拒絶している。
現代語訳『日支民族性論』の章立て
大隈重信著『日支民族性論』現代語訳の章立ては、以下の通りである。」
- この遺伝性をどうしたものか
- まず、最近の歴史から見る
- 支那の日本に対する侮辱
- 苦しいときの神頼み
- このたびの交渉の経緯
- 尚古の陋風(ろうふう)と始皇帝の英断
- 道学と儒学の消長
- 支那の自大心とその実際の勢力
- 閭右(りょう)と閭左(りょさ)
- 中国の誇りはどこにあるのか
- 熱烈な宗教的信仰がない
- 常に文弱によって亡ぶ
- 朱子の学風と孔子の儒教
- 武強で亡ぼしても、文弱に征服される
- 支那人は、いまもって鬼神説(デーモニズム)の信者である。
- 国は自力によって保たれなくてはならない
- 自滅しないのであれば亡びることはない
- なぜ日本と支那は相携えるべきなのか
- 日本に漢字が迎えられた理由
- ここにわが民族の光輝がある
- 平安朝の模擬的文明
- 文明の過渡期には暗礁がある
- 支那はどうして日本から学ぶことができないか
- 支那流の虚栄に学んではいけない
- 福沢翁の心事をわが心事としなさい
大隈重信の自重的対中姿勢
大隈重信の対中外交は「対華14ヵ条の要求と7ヵ条」によって攻撃的だと捉える向きも多いが、いわゆる「対華21ヵ条の要求」は、そもそも、日本政府としてはドイツとの休戦講和条約が成立するまでは山東膠州湾地域におけるドイツ帝国が有していた諸権益を保全する必要があったから、反日主義の袁世凱に念のため突きつけた忠告であった。大隈重信の対中外交の神髄は、むしろ、本書『日支民族性論』の「その17 自滅しないのであれば亡びることはない」に如実にあらわれている。それは、以下の文である。
「今日の支那を奪おうと思えば、奪えるのかもしれない。しかし、そのために、日本もまた衰亡の淵に急ぐことを忘れてはいけない。・・・もし、支那が亡ぶようなことがあるとすれば、それは自滅であって、外からの攻略によるものではない。欧米のいかなる強大国であっても、日本であっても、結局のところ、支那を亡ぼすことはできないのである。仮にうまくいって、いっとき支那を亡ぼし、その主権を掌握することができたとしても、あのような不検束な(抑制のきかない)大国を統治し、これをある程度の節度のもとに服させようとするのには、たいへんな人力と財力をあわせて要する。日本がそれを試みたところで、日本の財力はたちまち枯渇するであろう。いや、欧米の力を以ってしても、同様に不可能と見るべきだ」
大隈重信は、幕末の天保9年(1938年)に佐賀藩で生まれ、内閣総理大臣を二度にわたってつとめて、その後下野して早稲田大学を創立し、大正11年(1922年)に没した。大隈の死後わずか15年後の1937年に盧溝橋事件から日中両軍の武力衝突が生じて、日本は中国大陸の泥沼に引き込まれていった。もしあの頃、大隈重信が日本の政治を率いていたら、日本は決して対中戦争の泥沼に足を踏み入れることはなかっただろうと私(書評者)は『日支民族性論』の「その17」の大隈の言葉から想像する。
問題は戦争だけではない。経済でもかの国に深入りすると火傷を負うということは、アメリカもようやく気付き始めた。
本書は、尖閣諸島問題をめぐって、また米中対立をめぐって、日中外交がまたも難局にある今こそ、読むべき書であると思われる。