『禅語を読む』 西村惠信 著
- 著者: 西村惠信(にしむら えしん) 著
- 言語: 日本語
- 出版社: KADOKAWA
- 発行日: 2014年12月23日
- 版型: Kindle版, 文庫版
- 価格(税込): Kindle版:¥785-, 文庫版: ¥1,980-
禅語録の流れをたどる禅宗史
本書のタイトルは「禅語を読む」ではあるが、この題名から、この本がよくあるような禅語そのものの紹介と解説の本だろうと想像したとするならば、その矢は的からかなり外れている。
本書は、禅宗の初祖 達磨(ダルマ)大師以来1500年間にわたって受け継がれてきた禅宗の「語録」の系統を辿る書となっている。中国・日本の祖師たちの遺された「語録」によって禅宗の中身を辿ってみたいという意味で、あえて書名を「禅語を読む」としたと著者は「はじめに」で書いているが、もしかしたら一般の人にとっては勘違いしやすい題名かもしれない。「禅語録の流れをたどる」とか、「禅宗祖師たちの語録」とかにしたほうが内容は的確に想像しやすかったのではないかとも思えた。であるから、禅語の語録の系統をたどることで禅宗がどのように発展をとげてきたのかを知りたい方にとっては、本書は実に適した書だと言える。
章立ては、序章から第3章まで次のように四部構成になっている。
- 禅の語録を読むために
- 中国の禅僧たちの語録
- 日本の禅僧たちの語録
- 禅の思想的表現
禅宗というのは、初祖の達磨大師が「不立文字」(ふりゅうもんじ)ということを説いたとされている。つまり、「文字や言葉は解釈次第で如何様にも意味が変わってしまうので、文字は立てない(文字には頼らない)」というのが「不立文字」の意味であるが、それにもかかわらず、禅宗にはおびただしく多い「禅語」と「語録」とが存在してそれを修行に使用してきている。この一見矛盾しているかのように見えるところが禅宗の不思議である。著者の西村もまた「不立文字」を掲げる禅宗にかえって他の宗派に見られないほど語録が多いのは奇妙な話ですと述べている。しかしそこにはそれなりの理由があると西村は言う。
禅宗は、人間仏陀の歩んだ前半生のプロセスと、その結果到達した世界観と人生哲学を、のちの世の修行者たちが自身の身上において「追体験」することを目指す宗教だという。そのプロセスにおいては、修行者自身が内なる自己と対峙し対決しなければならない。その内なる自己との対峙対決こそが重要なのであって、外から教え込むような権威的な教義は、内なる自己との掛け合いにかえって邪魔になるとして一切否定し拒絶するのだという。「語録」とは、教義そのものではなく、そういう自己との対峙対決のプロセスを歩んだ先人たちの血の滲む経験談だという。つまり、禅語や語録は、修行者たちが護るべき教義鉄則などではなくて、修行の様々な路筋を参考やヒントとして与えるような先人たちの足跡に過ぎないのである。
2歳で得度して禅宗と基督教を学んだ著者
西村惠信は、本書巻末の紹介によれば、わずか2歳で得度したという。花園大学で禅宗学を学び、南禅寺に参禅した。そののち、アメリカペンシルベニア州のペンデルヒル宗教研究所でキリスト教を研究し、京都大学大学院文学研究科博士課程に進み、宗教哲学を研究した。仏教学者でありながら渡米してキリスト教を研究した稀有な経験から、著者は宗派を超えた幅広い知見を有している。一見こうした突飛なことができるのも、あらゆる権威的な教義の押し付けを嫌い、逆にどんな事どもを以てしても、自らの内なる自己との対峙のみを重視するという禅宗ならではの自由闊達さが活かされたからなのではなかろうかと私(書評者)には思えた。
禅宗の語録の歴史を勘案するうえで、キリスト教との比較をすることができるのも、そうした稀有な経験を積んだ著者ならではのことだろう。西村は次のように述べている。
「あらゆる宗教に於ける祖師の記録は、師の教説の記録というより、むしろ弟子たちの、師に対する熱い思いの記録であり、キリスト教的な言葉を借りれば、それは弟子たちの師に対する【信仰告白】(ケリユグマ)とも言うべきものです。今日、キリスト教神学では、「聖書の非神話化」ということが行われ、聖書のほとんどの部分を占めるキリストの弟子たちの言葉を排除し、本当にイエス・キリストの語られた言葉に帰ろうとする運動があるようですが、そういう書誌学的な試みは、学者の戯れであっても、純粋な信仰の立場から見れば、徒らに純粋な信仰心を汚すだけではないかと思います」
西村惠信は、禅の「語録」を次の5つのグループに分けている。
- 祖師たちが自ら筆を執って著述したもの
- 祖師たちの伝記と聞き書き
- 禅宗の歴史書
- 修行者の生活の規定書
- 禅僧たちの詩文集
初祖の達磨大師から日本の良寛さんまで
本書では、数多くの祖師たちの語録のなかから30あまりの語録を選び出して、時代順に並べて説明している。それは、初祖 達磨大師から始まって、日本の良寛さんに至る祖師たちの禅心の記録である。
達磨大師の語録としては、昭和10年に鈴木大拙博士が敦煌文書の中に達磨のものと思われる「二入四行」(ににゅうしぎょう)と題する巻物を見出したことに触れている。「二入」とは、妄念を捨てて真理に入れという「理入」と行に入れという「行入」のことである。「行入」には四つの行があり、それは過去生の報いを受ける行と、縁に従うという行と、無理に求めることをなくす行と、そして、清浄なる法にかなうように日々を過ごす行のことである。仏典に依らないという点で、既に現在の禅宗の姿の原型がここにあるという。
唐時代の圭峰宗密(けいほうしゅうみつ 780~841)の書に、「教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏」(きょうげべつでん・ふりゅうもんじ・じきしにんしん・けんしょうじょうぶつ)という、例の「不立文字」を含んだ有名な語が出てくるという。この意味は、「教えに説くものとは別のものを伝え、文字を立てない。自分とは何かを見届けて、自分自身が仏陀となる」という意味で、達磨大師はこの言葉を禅宗の一大宣言としたのだと、圭峰宗密は伝えたのだという。
日本では、一休さんと並んで有名な良寛さんは、次のような詩を残している。
「今日帰郷 旧友を問えば
多くは是れ 名は残る苔下の塵」
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」
このような詩も「禅語」である。
本書は、禅語の語録の系統を時代順に並べて、それを追ってみるうちに、禅宗の歴史の全体像がはっきりとみえてくるという、実に遠大な企みの書である。
「章・節・項」で緻密に設計された博士論文のようなしっかりとした構成だが、一般の初心者にもわかりやすく書かれているところが、さすがは著者の力量ならではと思えた。