『比叡山延暦寺1200年』 後藤親郎、瀬戸内寂聴、光永澄道 他 著
- 著者: 後藤親郎、瀬戸内寂聴、光永澄道 他 著
- 出版社: 新潮社
- 発行日: 1986年5月25日
- 版型: ムック本
- 価格(税込): 絶版
比叡山の美しい写真満載
京都に行くと寺院で美しい庭園が見られる。それらの庭園には借景を使って大自然を模しているものもあって美しい。しかし、比叡山に行くと、寺を囲んでいるのは本物の大自然だ。
私は、比叡山延暦寺の早朝のおつとめ(勤行)には20回ほど参加していると思う。ケーブルカーもロープウェイも比叡山ドライブウェイも早朝には開いていないので、早朝の勤行に参加するには山の上の宿坊に泊まらなければならない。春も夏も秋も冬も根本中堂の早朝のおつとめに参加したが、積雪30センチも積もった冬に登山靴にアイゼンを付けて行った時には、広大な根本中堂の中におつとめの参加者は私ひとりだけだった。勤行のあとで当番の僧侶の方が私の前に立って言った。「今日は、仏様と1対1でご対面できましたね」
本書は比叡山延暦寺を豊富な写真で紹介したムック本である。本書の著者をカバーで見ると、「後藤親郎、瀬戸内寂聴、光永澄道」とある。本当に贅沢なことである。
瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう)は知らない人はいないと思うので、後藤と光永について述べる。
後藤親郎(ごとう ちかお)は、「千日回峰行(せんにち かいほう ぎょう)」を追い続けて撮影した写真家である。千日回峰行とは、比叡の山中を積雪の冬以外1日あたり毎晩30キロメートルずつ歩き、満行(まんぎょう)となる「千日」に至るまで、7~8年もかけて修行し続けるという過酷きわまりない修行である。病気でも挫折することは許されず、挫折したら自ら命を絶たなければならない。しかも、回峰行の最後には「堂入り」という9日間の「断食・断水・不眠」という死と隣り合わせの行が待ち受けている。後藤親郎はこの荒行を取材し、行者につかず離れず数年間かけて撮影した写真家である。
光永澄道(みつなが ちょうどう)は、歴史上44人目、第二次大戦後7人目に「千日回峰行」を満行した延暦寺大阿闍梨(だいあじゃり)である。
大阿闍梨さんは次のように述べている。
「千日回峰は12年間籠山(ろうざん)し、その内7年間で千日行うのが普通である。1年目から3年目までは毎年百日間、4年目と5年目はそれぞれ2百日行い計7百日、6年目は1日60キロの行程を百日、7年目は前半百日を1日84キロ、後半百日を30キロ、都合千日となる」
比叡山での瀬戸内寂聴の修行
本書で、瀬戸内寂聴は「比叡への道」という文を書いている。最澄が琵琶湖を背にして坂本の村道を比叡山に向かって歩いている場面から始まるが、この文で一番興味深く読めたのは、寂聴の比叡山での修行の体験記だ。寂聴は1974年に51歳で比叡山横川(よかわ)の行院に入った。この二ヵ月間の行院での修行の体験談がこの文章中で一番ヴィヴィッドだった。行に来ていた寺の子息たちは長時間の正座で足の痛さに涙を流している。行院長の武覚円師は言う。「ほととぎすの声は、酒のみには一本つけたかと聞こえる。小坊主には雑巾かけたかと聞こえる」
私は、比叡山延暦寺の英語版ガイドブックをKindle版で書いたことがあるが、その時は天台宗務庁の宗務総長から許可を頂いて取材に全面協力していただけた。取材でお世話になった二人の僧侶の方のひとりのお名前が武氏だったので、「ほととぎすの声は、酒のみには一本つけたかと聞こえる」と言ったという武覚円師とのご縁を訊くと、伯父御とのことだった。
ちなみに、千日回峰行者のことを英語では"marathon monk”(マラソン・モンク)と呼ぶ。外国人にはその言葉が回峰行のイメージが一番伝わりやすいので、それを最初に言い出した人の名前も引用して私もその言葉を一部使ったが、その話をすると横川の四季講堂(元三大師堂)の当執事様が口をあんぐりとされた。私はただ引用しただけだが、使ったのだから私も同罪である。
比叡山の宿坊での食事は精進料理なので、肉も魚も卵も一切出ない。穀物野菜と豆腐と果物だけであるが、酒は飲むことが許されているのがありがたかった。「一本つけたか」という声を聴こうと耳を澄ませたが、まだ聞けていない。
Mount Hiei The Sacred Kyoto Mountain of Buddhism (English Edition) Kindle版