『千日回峰行』 光永覚道 著
- 著者: 光永覚道(みつなが かくどう) 著
- 出版社: 春秋社
- 発行日: 1996年3月28日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 単行本: 絶版
今から1214年前に伝教大師最澄によって開かれた仏教の山「比叡山」では、次のような様々な仏教修行の形がある。
- 十二年籠山行(じゅうにねんろうざんぎょう)
- 四種三昧(ししゅざんまい)
- 千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)
「十二年籠山行」は、伝教大師の御廟(ごびょう)である浄土院で、「生身」の大師に仕えて奉仕する「侍真(じしん)」の職を務める。どちらかと言えば静的な修行であるが、やはり厳しい行である。
「四種三昧」は、長期間にわたって暗く静寂な道内で、2度の食事と用便以外はもっぱら坐り続ける常坐三昧や、堂内で念仏を唱えながら本尊の阿弥陀佛の周囲を回り続ける常行三昧(じょうぎょうざんまい)などがある。常行三昧では、疲れたら堂内の柱間にしつらえた横木を頼りに歩いたり、天井から吊り下げられた麻紐につかまって歩を休めることは許されるが、坐ることは許されず、臥して寝ることも許されない。
これらの修行のうち、最も有名な「千日回峰行」(せんにちかいほうぎょう)は、文字通り、比叡の峰々を千日間かけて1日7里半、巡礼しながら回る荒行である。7里半というと30kmだそうだが、その1日30kmという数字を聞いて、それなら私でも1日ならできると思う人もいるかもしれない。しかし、それは平地ではない。巡礼のルートは山中の荒れた細い山道であり、その高低差は550メートルという上ったり下ったりの繰り返しなのだ。細い山道を丑三つ時の深夜から行燈(あんどん)で照らしながら阿闍梨さんは草鞋ひとつで歩く。しかもそれを千日間も行わなければならない。歩けなくなった時には自ら命を絶つための短刀も常に携えている。満行できない場合には自害という決意なのだ。さらには、回峰行の後半には、「堂入り」という難行が残っている。「堂入り」とは、比叡山無動寺谷(むどうじだに)の明王堂に入って9日間、断食、断水、不眠、不臥(体を横に寝せない)で不動明王の真言を10万回唱えるという、生死すれすれの過酷な行である。歴史を振り返れば、天皇家が大阿闍梨の祈祷力に頼って、満行した大阿闍梨には京都御所に草鞋を履いたまま宮中に上がり込む「土足参内」(どそくさんだい)さえも許されてきた。
本書は、1990年に千日回峰行を満行(まんぎょう)した大阿闍梨(おおあじゃり)、光永覚道氏に対する長時間インタビューで構成した本である。インタビューから成る本の出来は、インタビュイーの実力はもちろんのこと、それ以上にインタビュアーがインタビュイーの魅力を如何に引き出せる質問をするかということと、質問群の構成が如何に理路整然と組み立てられているかに如実に左右される。その意味で本書は、多少内容に重複する部分が前後することもありはするものの、インタビュー本の最も成功した事例のひとつと言っても過言ではないだろう。本書の章立ては次のようになっている。
- 比叡の四季
- 出家──生い立ちから回峰行まで
- 回峰行とは
- 菩提を求めて──千日回峰行Ⅰ
- 人々の祈願とともに──千日回峰行Ⅱ
- 回峰行を生きる
無動寺の明王堂(写真 © 石川雅一)
出家の時に捨てたもの
光永覚道氏は、山形市の教育者の家系に生まれた。お寺の出身ではなかった。全寮制の高専に入学し、ある時、京都のお寺の庭を見て回ろうと京都に来ようとしたが旅館に長逗留するような大金がない。そこで、母親がよく行っていた山形のお寺さんに比叡山のお坊さんを紹介してもらい、そのお寺に泊めてもらって一週間ほどかけて京都の有名な神社仏閣の庭を見て歩いたのだという。そのお世話になった延暦寺一山の住職から、「お前、山に上がってこい」と言われ、のちに師匠となる光永澄道阿闍梨のもとで小僧の手伝いでお堂の掃除、まき割りをして「お世話になりました」と言って山形に帰った。すると、山形のお坊さんを通して、無動寺に弟子に来ないかという話が来たのだという。阿闍梨さまからも見込まれたのだった。それまで、幼少時から魚釣りが何よりも好きで、川でも海でも暗いうちから魚釣りに出かけていた。誰よりも早く釣りの良いポイントに入るためにオートバイにも乗るようになった。しかし、出家をして僧侶になると、魚釣りのような殺生はできなくなる。出家の時に、なによりも好きだった魚釣りを捨てたのだった。
7年かけて千日間、峰々を巡る
千日回峰行は、平安時代前期の相応和尚(そうおうかしょう)が始祖となる行である。織田信長による比叡山焼き討ち以降から数えても、千日回峰行を満行した阿闍梨は50人ほどしかいない。
千日回峰行と言うが、この千日とは、正確に言えば、975日なのだという。7年間かけて千日間歩くが、そのうち最初の3年間は1年ごとに100日だけ歩く。4年目は200日歩き、5年目で200日歩く、そして堂入りがある。6年目で100日歩き、7年目は200日歩く。そしてそのほかにやるのは、1年に一回の京都切廻りと葛川参籠(かつらがわさんろう)だという。
真冬から早春にかけて、比叡山は深い雪に閉ざされる。私(書評者)も2月の厳冬期に比叡山に上ったことがあったが、登山靴にアイゼン(靴底につける滑り止めの鉄製爪)を付けて、雪が登山靴に入らないようにするロングゲイターも着装して万全の装備で行ったが、積雪40センチの雪にはかなり苦労した。林間の細い山道の場合には道の痕跡すらも一切消えてしまうだろうと想像された。つまり、1年間の内に100日から200日だけ歩くというシステムには、修行者の心身を慣らすという意味の他に、そういう比叡山の自然環境も理由として存在している。
写真 © 石川雅一
むち打ちと腰痛の持病
光永覚道氏は、比叡山に小僧として来た時からむち打ちとヘルニアの腰痛という持病を持っていたという。回峰行もその痛みと戦いながら日々巡礼をして回ったのだという。
峯峯と谷谷を巡るコースには参拝する場所が二百六十数か所もある。そのような拝礼の場所に立ち寄る都度、供華(くげ)をするのだという。だから供華用の樒(しきみ)を供華袋の中に3百枚くらい持ち歩いているという。
千日回峰行後半の「堂入り」が、比叡山の明王堂に入って9日間、断食、断水、不眠、不臥の過酷な行であることは既にふれたが、この「堂入り」は、お釈迦様が断食の苦行をされたことの「追体験」なのだという。
「堂入りというのは、断食、断水、不眠、不臥によって、人間の存在基盤を否定するんです」
本書は、比叡山の千日回峰行という驚くべき修行の体験を記した本である。おそらくこの本の読者は、読了後に、ふだんは気にもかけない日々の何でもない普通の生活が貴重極まりないものであるということに気づくかもしれない。