『輝ける闇』 開高 健 著
- 著者: 開高 健(かいこう たけし) 著
- 出版社: 新潮社
- 発行日: 1968年4月30日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 文庫: ¥649, 単行本: 絶版
従軍記者が描いたベトナムの真実
開高 健の名は、小説家というよりも釣り人として知られているようだ。だから小説『輝ける闇』よりも釣りノンフィクション『オーパ!』のほうがよく知られているかもしれない。
開高 健は、寿屋(サントリー)でPR誌の編集やコピーライターを務めながら、小説『裸の王様』で芥川賞を受賞した。その後、朝日新聞社の臨時特派員としてベトナム戦争を従軍取材した。その時の戦地での熾烈な経験が、小説『輝ける闇』を書く原動力となった。純文学ではあるが、本書を読んでいると生々しいノンフィクションを読んでいるかのように感じられるのはそのためである。
本書は、次のような書き出しで始まる。
「夕方、ベッドのなかで本を読んでいると、ウェイン大尉が全裸で小屋に入ってきた。彼はベッドのしたからウィスキー瓶をとりだし、夕陽のなかで軽くふってみせた」
主人公は本の虫だ。戦場でも本を読んでいる。全裸のウェイン大尉と主人公の「私」は、10メートルほど離れた「アストリア・ホテル」の中のバーへと向かった。といっても裸でホテルの中に入れるわけはない。そこは、「アストリア・ホテル」というあだ名の粗末な小屋で、中には名ばかりのバーがあった。ウェイン大尉と「私」はそこでジャック・ダニエルをグラスに注いで啜るように味わった。小屋の窓のかなたには塹壕と地雷原があり、その向こうにはゴムの木の林と、収穫を終えた田んぼが見えた。
駐屯地の兵舎は「兵舎というよりはむしろ家畜小屋である」。壁にはボール紙で作った仏壇が貼り付けてあったり、マリア像の絵や十字架が飾ってあり、その前で中尉は拳銃を手にしながら中国将棋をしている。
戦場で読むマーク・トウェイン
主人公はシャワーを浴びたあとでベッドにころがってマーク・トウェインのつづきを読む。大尉の名前ウェインと、マーク・トウェインと、韻を踏んでいる。書評者(石川)は、これは開高健がわざとやったことではないかと思っている。トウェインは主人公にとって偉大なアメリカ文学の象徴であり、「あんたは客じゃない。友人ですよ」と主人公に向かって言うウェイン大尉は、いかにも超大国アメリカの典型的な勇猛でフレンドリーな士官である。AR-15自動銃(機関銃)をさげて戻ってきたウェイン大尉はベッドに腰をおろして日報を書き出す。主人公は大尉の筋肉の群れあつまったたくましい背中を見つつ思う。
「万年筆よりちょっと太いくらいのたった一個の穴から黄いろい生も白い生も流出してしまって、あとにのこるのは渚にうちあげられたクラゲのような袋である。彼もまた一群の骨に薄い膜をかぶせて内臓が滝のように落下するのをふせいでいるきりである。むしろ私はこの体を作るのに何千個のハンバーガー、何万本のコカ・コーラが消費されたことかと考えたくなる」
ウェイン大尉は、100メートルばかり離れたところに行くにもどこに行くときも必ずAR-15自動銃をさげて行く。ジープで周辺をパトロールしているときには1週間に5回も狙撃されたことがあった。銃弾が「チュンッ、チュンッ・・・」と、こめかみのそばの空気を引っ裂いていったのだ。
美しい田園風景、しかしそこはまぎれもない戦場だ。いつ生が死に変わるかわからない緊張感に満ちている。しかし主人公はそれでも平静を保って従軍生活を満喫しているようにみえる。「ここの昼はキャンプ生活である。私は楽しんでいる」と主人公は述べ、たっぷりと食べ、たっぷりとシエスタを貪り、マークトゥエインに読みふける。
「闇両替屋のキシナニ氏の店でガーネット訳の『白痴』と『チェーホフ短編集』を買って私はここへ持ってきたのだが、ムイシュキンの独白や可愛い女は汗から湯けむりのたつようなこの小屋の暑熱を突破することができなかった。トウェインの奔放、簡潔、晴朗なおしゃべりだけがそれを突破できた」
密林探査撃滅計画
主人公は、食後にベッドに横になって本を読んでいると、ウェイン大尉が小屋に入ってきて作戦計画を打ち明ける。それは四日がかりで3大隊500人の部隊でDゾーンのジャングルを横断して敵を探査し撃滅するという作戦計画だった。その作戦に参加するかと訊かれ、主人公はいかにも無謀そうな計画だとは思いながらも、「ええ」と頷いた。
灌木林や草地を抜けジャングルに入ると巨木と灌木がぎっしりと生えていて5メートル先もみえなくなった。突然、右から左から前から後ろから銃声がした。包囲されたのだ。ウェイン大尉は無線電話に叫んで空からの近接支援爆撃を要請した。やがて空から米軍機のロケット弾が周囲に豪雨のように降り注ぐ。味方の兵士たちが逃げ出し、電話機のコードが引きちぎれ、ウェイン大尉と南ベトナム軍のキェム大佐とが東へ逃げるか南へ逃げるかで激しく言い争う。目の前の樹皮を跳ね飛ばして跳弾が飛び交う。空からのロケット弾の轟音と、ベトコンが撃つ銃弾がヒュンヒュンうなる中、主人公は涙を流しながら「家畜のように」逃げ走った。
本書は、開高 健 自らのベトナム従軍取材体験を生々しく描きながらも、純文学という形に昇華させたすばらしい作品である。
書評者(石川)は様々な戦争の文学やノンフィクションを多々読んできたが、繰り返し読みたくなる本というのはなかなかない。本書は時を経て再び読みたくなる戦争文学の傑作である。