『ジョン・ケージ 著作選』 小沼純一 編
- 著者: 小沼純一 編
- 出版社: 筑摩書房
- 発行日: 2009年5月10日
- 版型: 文庫本(ちくま学芸文庫)
- 価格(税込): ¥1,320円
実験音楽の哲学者 ジョン・ケージ
ジョン・ケージ(John Cage: 1912~1992)は、アメリカの作曲家で、前衛芸術的な実験的音楽を数々手掛けた。なかには、演奏者がまったく音楽を演奏しない曲まで作曲した。曲「4'33"」(フォー・サーティースリー)では、演奏者は、第一楽章も第二楽章も第三楽章も、ピアノの前に座るが演奏はせずに、ピアノ鍵盤の蓋を閉じてしまう。こうして、4分以上のあいだ、鍵盤のふたを楽章前後で開け閉めする音と、演奏者が楽章の前後で押すストップウォッチのクリック音以外は何も聴こえず、演奏会場には沈黙が支配したままこの曲は終わる。とうとうピアノの鍵盤に指先を触れずに終わった演奏者が会場の客にお辞儀をして立ち去るというパフォーマンス(演奏)である。(このパフォーマンスを視聴してみたい方は、「ようつべ」で"john cage"で検索してみられるとよい。)この人を食ったような「実験」はまるでジョークそのもののようでもあるが、人々に音楽とはいったいなんなのだろうということを考えさせるに至った。これは、20世紀美術における前衛芸術活動の嚆矢とも言えるマルセル・デュシャンの「"Fountain": 泉」にも似た衝撃だったように私(書評者)には思える。マルセル・デュシャンは、陶器製の男性用小便器に"R.MUTT 1917"と署名を書いただけで展覧会に出品しようとしたのだ。「しようと」といったのは、展覧会はこの作品の出品展示を拒否したからである。しかし、のちに、前衛芸術の美術史家によって、この作品は20世紀前衛美術の主たるランドマーク的作品であると高く評価された。
ジョン・ケージもまた、20世紀における、前衛音楽活動をリードした作曲家であった。この音を鳴らさない「演奏」が持つ意味ということについて、私はいったい何なのだろうと想像をめぐらしてきたが、本書のケージによる記述のなかに、そのヒントとなるような陳述を見つけた。それは、以下のようなケージ自身の言葉である。
「今や時は変わり、音楽も変わった。そして私はもはや「実験的」ということばに反対しない。・・・・・・この新しい音楽について「実験的」と言うのをやめてしまった人も多かった。その替りにそのような人達は、半歩下がって「議論の余地がある」と述べるか、遠くに離れて、一体この「音楽」はそれでも音楽なのかと問うている。というのは、この新しい音楽に於いては、音響以外の何ものも生じないからである。その音響には、記譜されているものと、記譜されていないものとがある。記譜されていないものは、書かれた音楽に於いては沈黙として現われるが、それは、外界に隅々生ずる音響に門戸を開いている。この開放性は、現代の彫刻と建築の領域に存在している。ミース・ファン・デア・ローエのガラスの家は、それを取り巻くものを反射し、状況によって雲、木、或いは草の像を視覚に与えてくれる。又、彫刻家リチャード・リッポルトによる針金の構成を眺めている最中には、不可避的に、針金の網目を通して他の物が見えたり、同じ時に人々がそこに入れば、その人々も見えるのである。空虚な空間とか空虚な時間などというものはないのだ。常にみるべきもの、聞くべきものがある。実際、いかに沈黙を作り出そうとしても我々にはできない。・・・・・・私が死ぬまで音響は存在する。それらの音響は私の死をみとりながら存在し続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。」
以上が、ジョン・ケージの言葉であるが、私はこの言葉に、ケージ自身の音楽家というよりも哲学者然とした賦質を観る。
今や古典となったジョン・ケージ
先日、ジョン・ケージ作曲の楽曲CDを入手した。"Complete Works for Flute・1" で、フルート演奏はドイツのKatrin Zenzである。このCDは、"AMERICAN CLASSICS"のシリーズで、かつて時代の最先端を走る前衛芸術家だったジョン・ケージも、いまやクラシック(古典)なのだなと、しみじみと感じた。
このCDは、ディスクジャケットの画像が禅の枯山水の庭になっている。また、曲名にも"Ryoanji"(龍安寺)とついていて、禅の影響を受けたらしいジョン・ケージの思想がジャケットからも感じられる。
このフルート演奏を聴くと、その音色がまるで尺八のように聞こえたのでちょっと驚いた。
CD: "Complete Works for Flute・1"
ケージは、次のように述べている。
「現在、龍安寺という同一のタイトルの歌曲をいくつか書いていますが、区別を付けなければいけないと思いました。まず、ほとんどオーボエ用といっていいような歌曲を数曲書きました。声のためではなく、まるでオーボエのために書き続けたようになってしまったのです。私は考えました。違う。声はこの曲には合わない、別のやり方で書かなければと、別のものを書き始めたものの、またもや力不足であると感じてしまい、暗闇のなかにいるようで、どうしたらいいかわかりませんでした。植物に水をやっていると、どうしたら声のための作曲に打ち込めるかについて、漠然と考えていたことが次第にはっきりしてきました。・・・・・・新しいアイディアというのは、持続低音に近づいており、元々のアイディアは、持続低音とは程遠いものだったのです。私が思うに、問題なのは、今作曲を始めるなら、これらの持続低音に応じて取り組むことになりますが、まだ方法を見つけていないということなのです。」
このようにケージは言っているのだが、ケージの作曲や音響を使った実験は、メロディを創造するためというよりも、哲学的思索を深めるためだったのではないかという感じがしてならない。
ニューヨーク菌類学会の創始者のひとりでもあり、菌類やキノコに強烈な興味を持っていたケージは、本書のなかで次のように書いている。
「まず手始めに、どの音がどの茸(きのこ)の生育を促すかを明らかにすることを提案する。茸は茸自身音を出すかどうか。或る種の茸の菌褶(キノコの傘のひだ)は、適当に小さな羽をもつ昆虫がそれをピッチカートする(弦を指ではじく)のに使えるかどうか。山鳥茸の軸は、小さな虫が這入ったとき管楽器になるかどうか。その胞子は、まったくいろいろな大きさと形をしていて、まったく数えきれないほど沢山だが、大地に落ちたとき、ガムラン音楽のような響きがしないかどうか。そして最後に、微小なものとして存在しているにちがいないと私が思っているこのすべての生き生きとしたものが、電子工学の助けによって増幅され拡大されて、劇場に持ち込まれ、私達の楽しみをもっと興味深くすることができないかどうか。」
縦横無尽なケージの思索は、わたしたちをミクロの次元、菌レベルの視点にまで連れて行ってくれる。
自由闊達な哲学者であったジョン・ケージの記述を集めた本書は、何ものにも縛られないということの大切さを、私たちに教えてくれているように思う。
ジョン・ケージ著作選 (ちくま学芸文庫) 文庫本