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『栗林忠道 硫黄島の死闘を指揮した名将』 柘植久慶 著

2020年6月4日

『栗林忠道 硫黄島の死闘を指揮した名将』 柘植久慶 著

  • 著者: 柘植久慶 著
  • 出版社: PHP研究所
  • 発行日: 2006年12月18日
  • 版型: 文庫
  • 価格(税込): 文庫: 絶版

 

孤立無援の硫黄島の戦いを率いた名将

本書著者の柘植久慶(つげ ひさよし)は、慶應義塾大学在学中に傭兵としてコンゴ動乱に参加したり、その後アルジェリア戦争でフランス外人部隊に中尉待遇で参加したりした実戦経験を持つ軍事評論家である。

柘植は、日露戦争などと違って大東亜戦争においては「名将」の名に値する将軍は少ないという。それでも、大東亜戦争には四人の名将がいるとして柘植は次の四人の名を挙げているが、柘植は真珠湾攻撃立案の山本五十六海軍大将を名将リストには入れていない。それは私(書評者)も同感である。ただ、私なら、根本博中将も名将リストに絶対に加える。根本 博中将については、私の別の書評(『戦略将軍 根本 博』の書評)をご覧いただきたい。

<柘植久慶の挙げる大東亜戦争の名将4人>

  1.  硫黄島の戦いの栗林忠道(くりばやし ただみち)中将(攻防戦の最中に大将に昇進)
  2.  沖縄戦の牛島 満(うしじま みつる)中将
  3.  シンガポール攻略とフィリピン防衛戦の山下奉文(やました ともゆき)大将
  4.  南京攻略戦の松井石根(まつい いわね)大将

栗林忠道(1891年~1945年)は陸軍士官学校第26期で、陸軍大学35期は次席という優秀な成績で卒業したため、恩賜(おんし)の軍刀を拝受した。

栗林忠道はアメリカ合衆国に駐在武官として3年間駐在し、カナダにも武官として駐在したため、米国が如何に経済力軍事力ともに旺盛かということを身をもって知っていた。それゆえ、対米開戦には批判的であり、日本はアメリカと戦ってはならないという持論だった。

 

戦略的に最も重要だった硫黄島

米国が戦前から構想していた日本攻略の戦略は、日本軍が守備する南太平洋の島々(第一次世界大戦の結果、南洋諸島は日本の統治下に入った。)を個別撃破して最前線を次第に北上させていき、それらの奪った島の滑走路(日本軍が建設した滑走路)から飛ばした大型爆撃機で日本本土を空襲するというプランだった。日本本土を空襲するための焼夷弾も、実はアメリカは戦前から対日戦用に開発に着手していた。

戦前から描いていたプラン通り、太平洋戦争でサイパン島の日本軍が陥落すると、サイパン島で日本軍が作った1450メートルという南洋諸島最大の飛行場からB29爆撃機を飛ばして日本本土を空襲できるようになった。

サイパン島から日本本土まではおよそ2千3百キロメートルである。B29の航続距離は爆弾搭載重量によって異なるが、基本的な航続距離は6千キロメートル以上とされていたので、サイパン島から日本に行って、再度サイパン島に帰ってこれる十分な航続距離を4発エンジンのB29爆撃機は有していたのである。

ところが、サイパン島から日本本土へ飛ぶ途中に硫黄島が存在していた。硫黄島から東京までは1200キロメートル。サイパン島と日本本土のちょうど中間に存在する島なのである。しかも硫黄島には日本軍の飛行場がふたつも造られていたため、サイパン島から飛び立ったB29爆撃機は日本本土に向う途中で、硫黄島から飛び立った日本軍戦闘機によって迎撃されることになった。往路を生き延びて爆撃帰りのB29もまた帰路で硫黄島上空で日本軍機の迎撃に遭う。つまり、アメリカ軍にとっては、硫黄島は自らの戦略にとって目の上のたん瘤だった。すなわち、1944年7月にサイパン島を奪取したあとは、硫黄島が最も重要な戦略的奪取目標となったのである。この戦略的重要性は日本軍にとっても同様で、もし硫黄島がアメリカ軍に奪取されたら、将棋の「詰み」のようにその時点で実際のゲームエンドなのである。それにもかかわらず、理屈が通らないことに、日本の大本営は、この硫黄島を戦いの前から捨てたのである。そして、硫黄島の栗林中将麾下の2万2千人の将兵は、見殺しにされたのである。

 

栗林中将のとった戦術

栗林中将は、硫黄島防衛の司令官になるように求められたとき、大本営と掛け合って海空からの支援を確約させた。しかし、大本営はこの確約をいざとなったら反故(ほご)にしてしまい、海空からの硫黄島の支援を一切行わなかったのである。

栗林中将は、硫黄島がアメリカ軍に取られたら日本は終わりだと痛いほど知っていた。だから、勝てない戦いであっても、できるだけ米軍占領は遅らせなければならないと考えていた。

栗林中将は、硫黄島に着任すると、まず、島の民間人たちを日本本土などへ強制疎開させた。このあたりの経緯は、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島(いおうじま)からの手紙』でも描かれている。

敵軍上陸は海岸線で叩くのが常識とされていた。しかし、栗林中将はその海岸線防衛作戦プランを捨てた。日本海軍による海と空からの援護なくして、敵を海岸で叩くために海岸近くで待ち伏せれば、アメリカ海軍の艦砲射撃と空爆によって敵の上陸よりずっと以前に味方が完全にやられてしまうと考えたからである。とにかく地下に壕を掘って立てこもって艦砲射撃と空爆を生き残り、上陸した敵軍にゲリラ戦を仕掛ける方針に切り替えたのだった。

東西8キロメートル南北4キロメートルというこの小さな硫黄島を奪取するために、1945年2月、アメリカ軍は出来得る限りの総力を注ぎ込んだ。

栗林中将麾下の日本軍の守備隊2万2千人、日本海軍の支援無し!に対して、アメリカ軍は海兵隊を中心とした11万人の兵力、アメリカ海軍の航空母艦16隻、艦載航空機1千2百機、戦艦8隻、巡洋艦15隻、駆逐艦はなんと77隻という、島の周囲の海四方八方を水平線まで艦船で埋め尽くすような陣容であたってきたのだった。

これだけの戦力の差があれば、硫黄島の日本軍はわずか数日で陥落するだろうという予測をアメリカ軍では立てていたが、戦闘は1ヵ月以上も続き、「日本軍の死傷2万1千人に対して、アメリカ軍の死傷2万8千人」という熾烈な激戦となった。

長い激戦の後、米軍が一旦、硫黄島奪取に成功すると、この島の二つの飛行場も米軍が補修して使えるようになった。そして、サイパンから飛び立ったB29を直接援護するために、硫黄島からアメリカ軍の戦闘機が飛び立てるようになった。アメリカ軍の戦闘機P-51マスタングの航続距離は3千キロメートルであった。こうして、日本は完全に詰んだのである。

本書は太平洋戦争という無謀な戦争計画の中で、対米戦に反対していた栗林忠道中将が、その対米戦で最大級の激戦を戦わなければならなかった悲劇をよく描写している。

クリント・イーストウッドの監督で、渡辺謙が栗林忠道中将の役を演じた映画『硫黄島からの手紙』をご覧になった方にも本書をぜひ読んでもらいたいと思う。

本書文庫本は絶版になっているが、Kindle版での復刊が望まれる。

 

経営学者 野中郁次郎によるアメリカ海兵隊の研究

 

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石川 雅一

石川 雅一

 東証ペンクラブ 会員。学校法人評議員。 元日本放送協会で国際報道に従事。アフガニスタン内戦、カシミール内戦、パンチャヤト大暴動( ネパール)、湾岸戦争、アメリカ航空宇宙局(NASA)、国連安全保障理事会、ニューヨーク市警、米国核廃棄物、ロスアラモス国立研究所、米国海軍、米加漁業紛争、京都の歴史文化伝統産業などを取材。国際機関アジア太平洋放送開発機構講師(JICA専門家)としてクアラルンプールでアジア各国の放送局のジャーナリストを育成指導。金融市場分析のテクニカルアナリストとして日本の全産業三千数百社の上場企業のテクニカル分析をダイヤモンド社で三季にわたって完遂。  早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程中途退学。早稲田大学大学院商学研究科専門職学位課程修士(研究科長賞受賞)。MBA( Le Cordon Bleu; Global Service Business, WBS)。Certified Financial Technician(CFTe Ⅱ)。 一級小型船舶操縦士、剣道初段、趣味は能楽。

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