『入唐求法巡礼行記(にっとう・ぐほう・じゅんれい・こうき)』 円仁 著, 深谷憲一 現代語訳
- 著者: 円仁、 深谷憲一 現代語訳
- 出版社: 中央公論社(現 中央公論新社)
- 発行日: 1990年11月25日
- 版型: 文庫本
- 価格(税込): 現在(2020/4)絶版(Amazon等で中古本のみ)
世界三大旅行記の傑作:平安時代に日本人が著述
「世界三大旅行記」とされる三書のうち、世間で一番よく知られているのはマルコポーロの『東方見聞録』だが、マルコポーロの作を遥かに上回る傑作とされているのが、円仁の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』だ。
円仁(794~864)は、桓武天皇が平安京に遷都した794年に、下野国(しもつけのくに: 現在の栃木県)で豪族壬生氏の子として生まれた。15歳で比叡山にのぼり、天台宗祖師の最澄(さいちょう)に師事した。
最澄の死後、承和5年(838年)に遣唐使として中国に渡り、五台山や長安など各地の寺院を巡って十年後、多くの仏教経典を日本に持ち帰った。
この十年間にわたる中国での日記は『入唐求法巡礼行記』として残っているが、この書は、イタリア人のマルコ・ポーロ(1254~1324)がアジア諸国旅行を記した『東方見聞録』や、中国僧の玄奘(三蔵法師: 602~664)がインドへの巡歴を記した『大唐西域記』と並んで「世界三大旅行記」のひとつとされている。
玄奘の『大唐西域記』は、それを基にして『西遊記(さいゆうき)』が書かれ、三蔵法師や孫悟空(そんごくう)が登場するファンタジー小説になったと言えば、誰でも思い浮かぶと思われる。
マルコポーロは日本では小学生でも知っているが、『入唐求法巡礼行記』で博士論文を書いたアメリカ人のエドワード・ライシャワーは、円仁の作はマルコポーロの作とは比較にならないくらいの傑作だとしている。
円仁の『入唐求法巡礼行記』は原語は漢文だ。しかし、深谷憲一訳の本書では実に自然な現代語訳になっているため、誰でもが最近のノンフィクションや小説を読むかのように、容易に読書に没入できる。
仏教弾圧下の唐での大冒険
本書は、遣唐使としての円仁の十年間の中国旅行記だが、危険を冒すという意味ではまさしく大いなる「冒険」の記録だ。
円仁は838年に唐に渡り十年間、中国各地を巡歴したが、その時期の唐は、仏教にとっては苦難の時代であった。
道教と仏教が対立関係にあり、道士(道教の宗教指導者)が当時の武宗(ぶそう: 唐の第15代皇帝)に取り入って、仏教を政治権力によって弾圧させたのである。本書には当時の仏教弾圧の様子が生々しく記録されている。
武宗皇帝に取り入った道士らは、天子(皇帝)に次のように進言した。
「仏陀(ブッダ)はインドに生まれて不生(ふしょう)の教えを説くが、不生とは単なる死ではないか。仏教の言う涅槃(ねはん)も結局は死なのだから、道教でいう無為長生(むいちょうせい)の原理に及ぶものではない」
そして道士らは、宮中に巨大な神仙の台(山)を築かせて、仙人になる術を目指した。
ところが、築いた台に登っても誰一人として仙人になれないので、天子は怪しむ。
この疑いに危惧を抱いた道士は、怪しんだ皇帝に対して次のように答えたのだった。
「国の中で仏教と道教の二つがともに行われており、黒衣(仏教僧侶)の気がまさって登仙(とうせん)への道を妨げているのです」
そこで武宗は、数日後に勅(ちょく)を下して、全国の僧や尼僧をすべて強制的に還俗(げんぞく)させた。勅によって全国の寺院は荘園(しょうえん)を置くことも許されなくなった。
楚州の通訳からは、円仁に次のような手紙が届いた。
「勅があって、仏教の経や論書、祀(まつ)りの幡(はた)、・・・は焼き棄て清めつくせ、違反書は即刻極刑(死刑)に処す、というので・・・隠し持っているのを察知されるのが心配です」
後に武宗は33歳という若さで崩御するが、その死因は不老不死の薬として道士から薦められていた丹薬(たんやく)による中毒だとされている。丹薬とは、道士が作る不老不死のための霊薬(練り薬)である。武宗の急逝は、水銀中毒死の疑いが濃いという。
読み継がれるべき傑作
米国の駐日大使でもあったエドワード・ライシャワーは、有名なマルコ・ポーロの『東方見聞録』よりも四世紀も古い円仁の『入唐求法巡礼行記』の方が世界史的にはより重要であり、かつその記述の仕方も円仁の方が遙かに正確だとして次のように述べている。
「長い間ヨーロッパを震駭(しんがい)させたイタリアの商人の東方の旅の見聞録が、あいまいな一般的描写や時として誤った印象を語っているのに較べると、その(円仁の)日記は著しい対照をなしているのである。」(ライシャワー著, 田村完誓訳『世界史上の圓仁』実業之日本社, 1963)
帰国後、円仁は、関東や東北を巡錫(じゅんしゃく)して、今の東京の浅草寺や平泉中尊寺など多くの寺院や恐山(おそれざん)などの霊場を開いた。比叡山では、第一世天台座主の義真(ぎしん)、第二世の光定(こうじょう)に次ぐ第三世の天台座主となった。
円仁は次のような辞世の和歌を残している。
「おほかたに すぐる月日を眺(なが)めしは わが身に歳(とし)の積(つも)るなりけり」
円寂(えんじゃく)の間際(まぎわ)、おそらくは円仁の眼前に走馬燈(そうまとう)のように浮かんだのは、十年間の唐での苦難に満ちながらもスリリングで魅力的な旅の記憶であったに違いない。円仁、享年数えで71歳であった。
『入唐求法巡礼行記』は中公文庫の文庫本が現在(2020/4)絶版になっていて、中古本でしか入手できない状況はきわめて残念である。中央公論新社には、早急にKindle版での再版を望みたい。
なお、『入唐求法巡礼行記』は、現時点では、東洋文庫から単行本(第1巻と第2巻)での入手が以下の通り可能である。
東洋文庫 (日本語) 単行本(第1巻)
東洋文庫 (日本語) 単行本(第2巻)