『危険な夏』 アーネスト・ヘミングウェイ 著, 諸岡敏行 訳
- 著者: アーネスト・ヘミングウェイ, 諸岡敏行 訳
- 出版社: 草思社
- 発行日: 1987年7月15日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 単行本: 絶版
生と死の格闘技、闘牛の物語
「思いがけなく、スペインへ戻ることになった。わたしが祖国のつぎに愛している国へ」
この言葉でこのノンフィクションは始まる。1953年のことだ。ヘミングウェイが祖国アメリカ合衆国の次に愛していたのは、キューバでもフランスでもなかったのか、と思った。
もっとも、キューバは歴史的にも文化的にもスペイン圏ではあるが。
1936年から四年間にわたったスペイン内戦で共和派に属してナショナリスト派のフランシスコ・フランコを中心とした反乱軍と戦った経験を持つヘミングウェイは、もう二度とスペインの地は踏めないかもしれないと覚悟していたし、知り合いがひとりでも獄中にいるあいだは戻らないと決めていた。内戦の結果は、反乱軍の勝利で、フランコの独裁体制が確立していたからである。しかし、アメリカ人へのヴィザも不要になり、知りあいもすべて獄から解放されていたことと、過去に書いた記事を取り消さなくても、スペインで政治に口をださなければ丁重に扱われるだろうと言われ、再びスペインに入国したのだった。ヘミングウェイらはパリを車で素通りし、南仏のビアリッツからスペイン国境へと向かった。国境警備の係官は、なんとヘミングウェイの本を全部読んでいるというほどの大ファンだった。係官は立ち上がって握手を求めてきたのだった。こうして予想に反して国境は難なく通過することができてアーネストは、スペインの地を踏むことができたのだった。
天才闘牛士との出会い
スペインの闘牛も昔と違って、かなり小細工をしているという悪い噂をヘミングウェイは聞いていた。牛の角の先端を切り落として再度とがらせてもとのままに見せかけるという小細工。これで牛は角で突くと痛い思いをするようになり、攻撃に二の足を踏むようになるのだという。
しかし、ヘミングウェイはこの旅で、小説『日はまた昇る』にペドロ・ロメロの名前で登場させた名闘牛士のカイェターノの息子アントニオと出会った。アントニオも父親に似て完璧な技術を身につけていた。このアントニオの演技のヘミングウェイの描写が素晴らしい。
この高貴にして舞うような闘牛を見せるアントニオとの対比で描かれるもうひとりの闘牛士がミゲルである。ミゲルも当時、アントニオと並ぶ名闘牛士だったし、確かに見事な腕を見せていたが、ヘミングウェイにいつも感銘を与えるのはアントニオのほうだった。
或る日、ミゲルのムレタ(赤い布)が風であおられて、牛がそれをかいくぐり、ミゲルの腹部を右の角で捉えた。ミゲルは空中に撥ね上げられた。左の角がミゲルの股にかかり、ミゲルは背中から落ちた。闘牛場の医務室に担ぎ込まれたミゲルは、その場で医師から切開手術を受ける。
その後回復したのち、ミゲルはまた闘牛で身体を宙に撥ね上げられた。今度は角がミゲルの腹部にまで突き通った致命傷のようにも見えた。最前列にいたヘミングウェイは闘牛場の医務室には駆けつけられなかった。のちほど、アーネストとミゲルは病院で対面する場面で、このノンフィクションは終わる。
ミッチェナーによる解説
アメリカの小説家ジェイムズ・ミッチェナー(1907年~1997年)が巻末に「解説」を書いている。
「これは死について六十歳の精力的な男が書いた本である。男には故なきことではなく、自らの死を目前にしているという予感があった」と、ミッチェナーは述べている。
ミッチェナーは、この「解説」の後半で、スペイン語の闘牛用語について簡略な用語辞典を構成している。たとえば、「トレロ: Torero」は闘牛士、「マタドール: Matador」は殺す、「ムレタ: Muleta」は赤い布、「パセデペチョ: Pase de pecho」は胸元すれすれで通過させるパセ、などである。
闘牛についての本で、おそらくは、本書が至高の本だろう。
単行本は絶版になっているので中古本で入手するか、もしくは、永井淳 訳版がKindle版で入手可能である。
単行本は、諸岡敏行の訳が素晴らしいし、巻頭に十六ページにわたるモノクロの写真集があるのがとてもよい。
闘牛やスペインにご興味がある方には必読の書だと思える。