『レイモンド・カーヴァー傑作選』 レイモンド・カーヴァー 著, 村上春樹 編・訳
- 著者: レイモンド・カーヴァー 著, 村上春樹 編・訳
- 出版社: 中央公論社
- 発行日: 1994年12月7日
- 版型: 単行本・文庫本
- 価格(税込): 単行本: 絶版、 文庫本: 713円
神が宿る言葉
高校の時、文芸部の顧問をしていた女教師が、「詩の最初の言葉には神が宿ります」と強い言葉で言った。もしかしたら「神がおりてきます」と言ったのだったかもしれない。私が書いたつたない詩を読んだあとで、先生は拙稿を手にそう言ったのだった。
私は直観で「ああなるほど!」と思いつつ、そういえば、「はじめに言葉ありき(In the beginning was the Word.)」(ヨハネの福音書)というのがあったなということをぼんやりと思い起こしていた。
詩人にはなれずにジャーナリストになったあとも、そのことが頭を離れず、ニュース記事の最初の一節がいつも気になっていた。
日本の新聞記事にはしゃれた一言で始まる記事は滅多にないように感じていたが、海外の記事にはそういうしゃれた一節で始まる記事がよくあった。
そして気づいたのは、そういう洒落た一節で始まる記事は、ほぼ間違いなく、終わりの一節もまた余韻を残すようなシビれる締め方をしているということだった。
神が降りてきて没入する
たとえば、私がしびれた事例をひとつ挙げると、次のような英字新聞の書き出しの一節だ。
"The stone sentry posts stand enpty and silent now at Manzanar, their graceful pagoda shapes a haunting reminder in the desolate high desert here on the eastern slope of the Sierra Nevada."
拙訳する。
「石の監視塔がひと気もなく今は静かにたたずんでいる。そこはマンザナー。それらの上品な仏教塔(パゴダ)の形は、シエラネバダ山脈東端の荒漠とした砂漠の中にある恐ろしい過去の遺跡なのだ」
・・・・・
記事の本文は省略する。
この記事は次のような締めの一節で終わる。
"Everyone talks about the Holocaust Museum in Washington being so popular, but that happend across the ocean."
拙訳する。
「ワシントンでは誰もがホロコーストミュージアムについてよく語っている。しかし、同じことは大西洋を越えた場所でも起きていたのだ」
アメリカの歴史に詳しい人なら、最初の一節の中にある"Manzanar"という言葉で、この記事が何について書いたものなのかが直ぐにわかっただろう。
でも、もしわからなかったならば、「マンザナー」で検索してほしい。
ちなみに上記の新聞記事は、1998年のThe New York Timesの記事だった。
村上春樹の翻訳の流儀
村上春樹は本書『レイモンド・カーヴァー』傑作選の「訳者あとがき」で次のように語っている。
「よく翻訳は医療に似ているといわれる。【手術は成功しました。患者は死にました】というジョークがあるが、それと同じように、訳はきっちりと正しいのだが、小説としての勢いが大きく殺されている、ということが世の中にはたまにある。また逆にちょっと誤診はあったが、とにかく病気がなおって患者はぴんぴんしています、ということだってある」(村上)
・・・
「訳はどんな場合にも細部にまで正確でなくてはならないし、そのために僕らは日夜努力し、苦労しているわけだが、それと同時に僕にはやはり、最終的には自分が作家であるという立場をより強く貫きたいという思いのようなものがある。たとえ【へぼ】であっても、患者を結果的になおせる民間治療医的な医者でありたいと僕は思う」(村上)
カヴァーの風趣
レイモンド・カーヴァーも、村上春樹も、そんな「神降ろし」の名人だと思う。
本書で、私が気に入った短編の、始めの一節と 締めの一節を次に紹介する。
<始めの一節>
「僕とJPはフランク・マーティン・アルコール中毒療養所のフロント・ポーチにいる」
・・・・・
途中の本文は省略する。
<締めの一節>
「女房と話したあとで、ガールフレンドに電話しよう。いや、そっちを先にしようか。本当にあのガキが電話に出ないといいんだけどな。【やあ、シュガー】と彼女が出たら言おう。【僕だよ】」
(『ぼくが電話をかけている場所』: Where I'm Calling From, Raymond Carver, 村上春樹 訳、1994)
文庫本(中公文庫)