『FREEDOM FROM FEAR』 AUNG SAN SUU KYI
- 著者: AUNG SAN SUU KYI (アウンサン・スーチー)
- 出版社: PENGUIN BOOK
- 言語: 英語
- 発行日: 1991年
- 版型: Paperback
- 価格(税込): 単行本: 絶版
アウンサンスーチーの父アウンサンとは
本書はアウンサンスーチーが英語で書いたエッセー集で、スーチーが1990年10月にノーベル平和賞を受賞したあと、1991年に発刊された。
1994年12月、私(書評者)は、アウンサンスーチーが軟禁状態から解放されるかもしれないという情報を基に、スーチーの解放を待ち受けて取材するために、ミャンマー(旧ビルマ)の首都ヤンゴン(旧ラングーン)で1か月間滞在した。結果は、アウンサンスーチーはその時は解放されなかったが、本書は、ミャンマー入りする前のタイ王国の首都バンコクの書店ASIA BOOKSで買ったものである。裏表紙にUS$20.00-の値札が貼ってあるので20米ドルだったのだろうと思う。
アウンサンスーチーは、ミャンマー(旧 ビルマ)を英国から独立させたアウンサン将軍の娘で政治家であるが、アウンサンスーチーについて語るには、まずは、彼女の父親のアウンサン将軍について触れなければならない。
旧大日本帝国陸軍には、英米仏蘭列強のアジアにおける植民地支配を打倒追放するために、それら南アジア・東南アジア諸国の独立運動の「志士」を将来のその国のリーダー候補として養成しておかなければならないという考えが存在した。ビルマ(現 ミャンマー)の独立運動支援活動に当たったのは、大日本帝国陸軍の「南機関」という特務機関だった。南機関は、ビルマの有望な青年30人を選んでビルマを密出国させ、当時日本の統治下にあった南シナ海北部の海南島に集結させ、帝国陸軍のスパイ養成機関だった陸軍中野学校が集中講義と特別教練を行った。そのカリキュラム(教育課程)は、アジア諸国が欧米列強の植民地支配と収奪から脱して自ら独立国となって歩むべきであるという国際政治理論から、敵軍とどのように対峙して如何に効率的に攻撃すべきかという図上演習(シミュレーション)や、海南島の密林での実践演習と実弾訓練が日夜集中的に2か月間かけて行われた。
南機関による志士養成課程を修了したアウンサンは、タイ王国の首都バンコクに入ってビルマ独立義勇軍を創設し、日本軍と共闘して1942年3月に首都ラングーン(現ヤンゴン)から英国軍を排除することに成功した。しかし、その後のインパール作戦での日本軍の惨敗をみたアウンサンは、このままでは自分も殺されるし、独立の志も途切れると考えたに違いない。アウンサンは英国軍に信書を送って英国軍側に寝返った。ところが、日本の敗戦が確定すると、英国はアウンサンとの勝利後の独立の約束を破り捨てて再びビルマを英国の植民地に戻そうとした。アウンサンはビルマ独立に向けて根強く交渉を続けた。南機関を率いていた鈴木敬司少将が戦犯裁判にかけられようとされた時にも、アウンサンは猛烈に反対した。アウンサンは1947年4月に選挙で圧勝したが、同年7月に政庁舎で閣僚らと共に暗殺された。現地の噂によると、暗殺の背後には英国がいたと言われている。BBCの暗殺50年後の調査報道によると、暗殺犯に武器を供与したのは英国陸軍将校だったという。
1948年1月4日にビルマは独立を宣言したが、ビルマを独立に至らせたアウンサンの姿はそこにはなかった。
ミャンマー(旧ビルマ)が英国からの独立を果たせたのは、日本と南機関のおかげであると考えているミャンマー人は多い。1981年に、南機関を率いた鈴木敬司ら旧日本帝国陸軍将校7人にミャンマーで国家最高位の褒章である「アウンサンの旗」勲章が授与されたのもその証しであろう。
アウンサンスーチーの来歴
アウンサンスーチーは、アウンサン将軍の娘として、1945年6月、大戦末期のラングーン(現ヤンゴン)で生まれた。その後、英国のオックスフォード大学で哲学と政治学と経済学を学び、ニューヨーク大学大学院で国際関係論を研究した。
1988年、ビルマ社会主義計画党議長のネ・ウィン将軍による独裁政治と経済悪化に抗議する市民デモ活動が高まっていた。そんな中、スーチーはビルマに帰国した。ネ・ウィンは党議長を辞任した。同年8月、スーチーは首都の大寺院シュエダゴン・パゴダ前広場で民衆を集めて政治演説を行った。同年9月18日、ソウ・マウンが軍事政権を樹立し、SLORC(通称英語発音「スローク」: 国家法秩序回復評議会)という名の国家統制委員会(のちのSPDC: 国家平和発展評議会)を形成した。
同年9月27日、ソウ・マウン軍事政権に反対するスーチーは国民民主連盟(NDL)を結党して書記長になり、各地で演説を行ったが、翌1989年7月に、スーチーは自宅軟禁されて、NDL書記長も解任させられた。スーチーは、軟禁よりも国外退去を求めたが、海外メディアを利用しての批判を恐れたであろう軍事政権から国外退去は認められなかった。
つまり、私(書評者)がミャンマーに入ってアウンサンスーチーの自宅周辺に張り付いた1994年末は、スーチーが自宅軟禁されてから5年の月日が経った時だったのである。
しかし、アウンサンスーチー軟禁から解放かという噂は、噂の域を出ず、その時は結局スーチーは解放されなかった。
私がヤンゴンでスーチーが軟禁されたインヤ湖畔の邸宅近くで待機していた時に、ミャンマー人運転手が私に、今のミャンマーで覚えておかなければならない言葉があると言って私に教えてくれたのは、SLORC(通称発音「スローク」: 国家法秩序回復評議会)のミャンマー語の発音だった。私は今もその発音の仕方を鮮明に覚えている。それは次のようなミャンマー語だった。
「ナインガンドオゥー・ニエンウッ・ピーピャームッ・ティーサウイェー・アプェッ」
彼は、「アプェ」と控えめに発音する私のことをたしなめて、もっと最後は強く吐き出すように言わなきゃ駄目だと言った。
私は、さくらんぼの種を遠くへ飛ばす競技大会で参加者がするように「アプェッ」と思い切り吹き飛ばしたら、彼は、「それでよい」と軽くうなずきながら微笑んだ。
アウンサンスーチーの自宅軟禁(house arrest)が解除されて彼女が解放されたのは、その私のスーチー邸前待機取材からさらに6年後の2010年11月13日のことだった。
<その2へ つづく>