『自由 自ら綴った祖国愛の記録』 アウンサン・スーチー 著, マイケル・アリス 編, ヤンソン由実子 訳
- 著者: アウンサン・スーチー 著, マイケル・アリス 編, ヤンソン由実子 訳
- 出版社: 集英社
- 言語: 日本語
- 発行日: 1991年12月20日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): 単行本: 絶版
アウンサンスーチー「恐怖からの自由」の和訳版
先般、3回にわたってアウンサンスーチー(AUNG SAN SUU KYI )の”FREEDOM FROM FEAR” 英語版原書を紹介した。私は原書でしか読んでいなかったのだが、先般の3回の原書紹介のあとで、多くの方は原書よりも日本語版のほうを好むかもしれないと思い、アマゾンで和訳版を検索注文して本日郵送されてきた。和訳版は既に絶版となっていたので、中古本で買ったが、今回はこの和訳版を紹介したいと思う。
私は、本書:和訳版を手にして多少の違和感を感じた。それは、タイトル(書名)が単に『自由』に変えられていたことであった。副題が「自ら綴った祖国愛の記録」と小さく添えてある。
副題についてはよいと思うが、主題を「恐怖からの自由」:”FREEDOM FROM FEAR” から、単に『自由』に変えてしまったことに対して、唖然とする気持ちを覚えた。
以前、私の大学院の指導教授の故太田正孝先生が翻訳書の書名で嘆いていたことがあった。それは、クレイトン・クリステンセン(Clayton M. Christensen)の書"The Innovator's Dilemma"を和訳書では書名が『イノベーションのジレンマ』に変えられていたことだった。あの本を原著の英語版でなくとも、読めばよくわかるように、イノベーターが陥りがちなワナについて述べたことであって、イノベーション自体が問題を起こすわけではない。だから、"The Innovator's Dilemma"というタイトルは、和訳では『イノベーターのジレンマ』に訳すべきなのに、おそらくは出版社が営業上の思惑から変えることを翻訳者に促したのかどうかまでは知らないけれども、こういう原著のタイトルを勝手に和訳版で変えてしまう事例が日本の出版社では時折みられるのはなぜなのだろうと嘆いておられた。
本書のタイトルを見て、同じような感慨を抱いた。しかも、タイトルを圧するかのように、「ノーベル平和賞受賞 アウンサン・スーチー著」と大きく書いてあるが、こういうことは、本来ならば「帯」で書くべきことであろう。
恐怖からの自由
アウンサンスーチーは、ビルマ(現 ミャンマー)独立の父アウンサン将軍の娘として、1945年6月、大戦末期のラングーン(現ヤンゴン)で生まれた。その後、英国のオックスフォード大学で哲学と政治学と経済学を学び、ニューヨーク大学大学院で国際関係論を研究した。
本書はアウンサンスーチーが英語で書いたエッセー集で、スーチーが1990年10月にノーベル平和賞を受賞したあと、1991年に発刊された。スーチーのエッセイ集なので様々な随筆が載っているが、本書のタイトルは、同名のエッセイを書名にしたものである。
本書掲載の6つ目のエッセイ:「恐怖からの自由」の中で、スーチーは、権力者を堕落させるのは権力そのものではなくて、権力を失う恐怖が権力者を堕落させるのだと述べている。
スーチーによれば、堕落はビルマ語で「アガティ」と言うが、ビルマ人(ミャンマー人)が考える堕落(アガティ)には、以下の四種類があるという。
- サンダガティ(欲望から生まれる堕落)
- ドオタガティ(ライバルを陥れようとして不正を行う堕落)
- モオハガティ(無知であるため正道を踏み外す堕落)
- バヤガティ(恐怖から生まれる堕落)
このあたりの説明は仏教国ミャンマーならではの感じを受けるが、この四つのなかで最悪の堕落は4番目のバヤガティなのだという。
なぜならば、恐怖(バヤ)は、善悪の観念を徐々に蝕んでいくばかりでなく、他の三種類の堕落の原因になっているからだという。
こうした、ミャンマー人の仏教を根底にした人間の「堕落」についての伝統的な考え方に触れた後で、スーチーは、当時の自国軍政の下で民衆が直面した「恐怖」の多様な種類について以下のように挙げている。
- 投獄の恐怖
- 拷問の恐怖
- 死の恐怖
- 友人や家族や財産や生計の手段を失う恐怖
- 貧困の恐怖
- 孤独の恐怖
- 失敗の恐怖
- 勇気を無謀だと決めつける常識の恐怖
こうした恐怖の数々は、「力は正義である」という原則にのっとった支配の下で民衆が抱かされた恐怖だったとスーチーは述べている。
そして、真実や正義や思いやりといった概念は、極悪非道な権力に対抗する唯一の防波堤となる場合がしばしばあるのだから、そういった概念を陳腐なものとして退けてはならないという主張でこのエッセイを締めている。
アウンサンスーチーの栄光と汚辱
アウンサンスーチーは、ミャンマー軍政化における民主派の希望の星として、またノーベル平和賞受賞者として栄光に輝いた。
しかし、その一方で、その後のミャンマー政府によるミャンマー西岸部のイスラム教少数民族ロヒンギャ(Rohingya)の人々を迫害弾圧するミャンマー国軍や警察などをし放題に放っておいた非人道的な政治家として非難され、汚辱にもまみれた。その汚辱としては、以前"FREEDOM OF FEAR"書評の<その2>でも触れたが、以下のような事例があった。
- 2017年9月: アウンサンスーチーのノーベル賞を取り消せという請願運動に36万人の署名が集まった。 その後、ノーベル財団(Nobel Foundation)は、授賞後の受賞者から賞の剥奪をすることは一切無いと否定。
- 2018年9月: カナダの下院はミャンマーのアウンサンスーチーに対する「名誉市民」の称号を剥奪することを全会一致で可決した。
- 2018年11月: スーチーとかつて蜜月関係にあった 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、以前同団体(アムネスティ)が最高の栄誉褒章としてスーチーに授与していた「良心の大使賞」を、ミャンマーの事実上の指導者であるアウンサンスーチー国家顧問兼外相から剥奪すると発表した。
なぜ、アウンサンスーチーは少数民族弾圧で国際的に非難を受けるようになってしまったのか。
スーチー自身が本書で言ったように「権力者を堕落させるのは権力そのものではなくて、権力を失う恐怖が権力者を堕落させるのだ」という罠に自分自身が陥ってしまったのだろうか?
それとも、事実上の最高権力者とされながらも、軍や警察の暴走をコントロールできなかったというのだろうか? それとも?・・・
本書には、「民族間の団結を訴える」というエッセイも掲載されている。このエッセイの中でスーチーは次のように述べている。
「わたしたち国民民主連盟(NLD)は、この国のすべての民族の団結こそが、民主主義を求めるわたしたちの運動には大切であると、強く信じています。・・・たとえば、カチン州には、ジンポー族、リス族、シャン族、ビルマ族などの民族が住んでいます。・・・「わたしはカチン族です」「わたしはビルマ族です」「わたしはシャン族です」という態度をとるべきではありません。わたしたち全員が民主的権利を求めて戦う同胞である、という態度を取らねばならないのです」
一国の中に多くの民族がいることを述べたこのエッセイのなかにも、イスラム教徒ロヒンギャに触れる箇所はまったくなかった。
アルジャジーラの報道によれば、去年(2019年)末、アウンサン・スーチーは、国際司法裁判所(ICJ)で、罪のない民間人殺害をした軍人がいれば起訴すると約束した。しかしその一方で、スーチーは、2017年の弾圧はアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)のような反政府武装組織に対して行った単なる内乱鎮圧であるというそれまでの自己の主張を繰り返した。