『芥川賞全集 第十八巻』
- 著者: 目取真 俊、藤沢 周、花村萬月、平野啓一郎、玄 月、藤野千夜
- 出版社: 文藝春秋
- 発行日: 2002年10月10日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): ¥3,562円
芥川賞第120回~第122回の授賞作と選評
本書は芥川賞第117回から第122回までの授賞作と選評である。ここではそのうち、第120回から第122回まで、平野啓一郎、玄 月、藤野千夜についてふれる。
ここでは、これらの芥川賞作品の書き出しの一節と、登場人物(主人公とは限らない)の目を引いたセリフ、そして締めの一節だけを引っぱってくることとする。さらに、「選評」で目にとまった選者ひとりの一文だけを抜き写しすることとする。私の感想はあえて一切述べない。なお、ルビは括弧付けにしてある。「授賞」や「受賞」の字は儘(まま)。
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第120回授賞作: 『日蝕』 平野啓一郎
<書き出し>
「神は人を楽園より追放し、
再度(ふたたび)近附けぬように、その地を火で囲んだのだ
── ラクタンティウス「神の掟」
これより私は、或る個人的な回想を録(しる)そうと思っている。これは或るいは告白と云っても好い。そして、告白であるが上は、私は基督(キリスト)者として断じて偽らず、唯真実のみを語ると云うことを始めに神の御名に於て誓って置きたい。」
<セリフ>
「・・・・・・これら憎むべき、そして哀れむべき言語道断の大罪は、全能にして一なる神に対して為された汚穢に外ならぬ。・・・・・・我々は、主なる耶蘇(イエス)と聖母マリアとの御名に於て、被告は真の背教者であり、獣姦せし者であり、魔術師にして殺害者、悪魔礼拝者にして瀆神家、そして、創造主の生み給いしこの世界の秩序を、徒(いたずら)に乱さむとする魔女であると判断し、此処に慥かにそれを宣告する。これに由(よ)り、我々は被告を、国家の然るべき裁判権の執行人に引渡すこととする。執行人は須(すべからく)被告に対して生きた儘焚刑に処するを告げるべきであろうが、我々は猶(なお)主の慈悲深さを信じて、寛大なる処置の為されむことを欲する」
<締め>
「・・・・・・筆を擱くに及んで、私は翳射す今一方の机上に積まれた書の類に眼を落とした。内容は、北方で旺んになっている、アウグスティノ会の一会士によって始められた異端運動に関する報告である。
嘆息して、窓から外を眺めた。雨上がりの大地が、煌然と日華を映じて目眩(まばゆ)い。
── 禽(とり)が鳴いている。
ふと彼方を見遣れば、蒼穹(そら)には燦爛と虹が赫いていた。」
<選評: 三浦哲郎>
「この作者の該博ぶりと明晰な文章を駆使する力量は、確かに瞠目に値する。それを充分認めたうえでいうのだが、作者は、ここにちりばめてあるペダントリーとも思われかねない用語の力に頼ることなしに、それらを強引に押しつけるのではなしに、自分の意図するところを読む者へそっくり正確に伝えられるような独自の表現方法を考慮するべきではなかったろうか。そのような表現方法の発見に心を砕くこともまた文筆に携わる者にとっては欠かせないつとめではないかと思うのだが、どうであろうか。」
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第121回授賞作: 該当作なし
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第122回授賞作: 『蔭の棲みか』 玄 月 (同時授賞)
<書き出し>
「トタン屋根の庇が両側から延びて空を塞ぐ薄暗い路地を歩いていたソバンは、庇の切れ目の手前で立ち止まった。ひと抱えもある光の帯が、垂直に降りている。
今日も日差しがきつい。表通りに出るまえに広場の井戸で水を飲んでいこうとからだの向きを変えたのだが、一歩踏み出したところでバランスを崩しふらついてしまった。苦笑して背筋を伸ばし、井戸が二十年も前に涸れたことを一瞬でも忘れたのは、年のせいだとした。」
<セリフ>
「なんやて? わしなど台所で嫁はんが倒れていると思てとどめを刺すため蹴り上げたら、大きな麻袋いっぱいの栗やった。足の甲を貫通した棘を抜いてもらうのに外科病院までケンケンしたんやぞ」
<締め>
「仰向けに横たわったソバンは、口の肉片をぺっと吐き出し、ここにきて自分としてはとんでもない力が出たことに感謝した。閉じた瞼がつよい陽差しを感じる。このままいけば昼には今年いちばんの暑さになるだろう。<マッド・キル>のキャップも吹き飛んだのかと頭に手をやろうとした。しかし、両腕ともまるで動かないのだった。」
<選評: 三浦哲郎>
「玄月氏の『蔭の棲みか』は、前作の『おっぱい』に比べれば内容も文章も格段に重厚さを増していることは認めるものの、正直いって私にはよくわからないところの多い作品であった。三度繰り返し読んで、ようやくソバンの生涯や彼が生きてきた集落について一応理解できたと思ったが、それでも残念なことにソバンの哀しみや憤りに胸を打たれるまでには至らなかった。」
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第122回授賞作: 『夏の約束』 藤野千夜 (同時授賞)
<書き出し>
「八月になったらキャンプに行こうという約束を、松井マルオはすっかり忘れていた。というよりも最初から、あまり本気の話とは考えていなかった。
だから二ヵ月以上も経った今日、恋人の二十七歳フリー編集者・三木橋ヒカルから、
「どうして俺のこと誘わないわけ?」と不二家のペコちゃん人形にそっくりだと評判のくりっとした目で見据えられても、もちろん、自分がなにを責められているのか一向にわからなかった。」
<セリフ>
「俺とどっちがいい女?」
<締め>
「頬の肉をにっと盛り上げ、ヒカルはつないだ手を引っ張った。「俺、一個訊きたいことあるもん」
「なんて?」
あまり抵抗せずに、マルオもベッドに腰を下ろしながら訊いた。自分が横に座った振動で、ヒカルがちょっと飛び上がったのがわかる。
「知りたい?」
「うん」
マルオが頷くと、ヒカルは天井を見上げるように顎を大きくしゃくった。それからコックリさんにでも訊ねるみたいな抑揚のない調子で、来年私たちはみんなでキャンプに行けるでしょうか、と言った。」
<選評: 池澤夏樹>
「藤野千夜さんの『夏の約束』は気持ちのよい作品である。その気持ちのよさは、ほとんど拘(こだわ)りというものを持たず、すべてを受け流して生きている主人公マルオと、恋人のヒカルはじめ似たような周辺の連中、そして、その日々の暮らしをリズミックに軽く書いた文体にあるのだが、しかしマルオとヒカルが同性愛者であることはこの軽さにどう関わるのか。女の前で肩を張って男を演じる必要がないからマルオは飄々としているのか。それともさんざ迫害された果ての達観なのか。このままではスフレのように柔らかくて、もう少し歯ごたえがほしいとも思ったが、受賞に反対はしない」
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