『芥川賞全集 第十八巻』
- 著者: 目取真 俊、藤沢 周、花村萬月、平野啓一郎、玄 月、藤野千夜
- 出版社: 文藝春秋
- 発行日: 2002年10月10日
- 版型: 単行本
- 価格(税込): ¥3,562円
芥川賞第117回~第119回の作品と選評
本書は芥川賞第117回から第122回までの授賞作と選評である。ここではそのうち、第117回から第119回まで、目取真 俊、藤沢 周、花村萬月についてふれる。
ここでは、これらの芥川賞作品の書き出しの一節と、登場人物(主人公とは限らない)の目を引いたセリフ、そして締めの一節だけを引っぱってくることとする。さらに、「選評」で目にとまった選者ひとりの一文だけを抜き写しすることとする。私の感想はあえて一切述べない。なお、ルビは括弧付けにしてある。「授賞」の字は儘(まま)。
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第117回授賞作: 『水滴』 目取真 俊
<書き出し>
「徳正(とくしょう)の右足が突然膨れ出したのは、六月の半ば、空梅雨の暑い日差しを避けて、裏座敷の簡易ベッドで昼寝をしている時だった。五時を過ぎて少しは凌ぎやすくなっており、良い気持ちで寝ていたのだが、右足に熱っぽさを覚えて目が覚めた。見ると、膝から下が腿より太く寸胴(ずんどう)に膨れている。」
<セリフ>
「嘘物(ゆくしむぬ)言いして戦場(いくさば)の哀れ事語てぃ銭儲(じんもう)けしよって、今に罰被(ばちかぶ)るよ」
<締め>
「腰のあたりまで伸びた雑草の勢力にあきれながら、ハブがいないか棒切れで草の根元をあちこち叩いた。何か固い物に当たって棒の先が跳ね返った。草を薙ぎ払いながら進むと、仏桑華(ぶっそうげ)の生垣の下に、徳正でも抱えきれそうにない巨大な冬瓜(すぶい)が横たわっていた。濃い緑の肌に産毛が光っている。溜息が漏れた。軽く蹴ってみたが動きもしない。親指くらいもある蔓が冬瓜から仏桑華に伸びている。長く伸びた蔓の先で、黄色い花が青空に揺れていた。その花の眩しさに、徳正の目は潤んだ。」
<選評: 丸谷才一>
「目取真俊さんの『水滴』は、徳正の右足がふくれて踵から絶え間なく水がしたたり、さうしてゐるうちにベッドのそばに兵隊たちが立つ、そして彼らと彼との因縁、といふあたりまではなかなかよかった。幻想と笑ひとのまじりあひ方がおもしろく書けてゐた。しかし足から出る水が毛生え薬になって、それで儲ける段になると、想像力の動き具合が急に衰へる。ごくありきたりの展開になって、気持がしらける。」
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第118回授賞作: 該当作なし
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第119回授賞作: 『ブエノスアイレス午前零時』 藤沢 周 (同時授賞)
<書き出し>
「表面が鈍い鉛色になると半熟卵になる。まだあと五分はかかるだろう。
カザマは軍手を外してアノラックのポケットから煙草を取り出した。土木作業員が着ているのと同じ地味な紺色のアノラックだ。学生時代に代々木のガード下で立ちんぼのバイトをした時に支給されたものと同じタイプのものだ。ただ、胸には黄色の刺繍で小さく「みのやホテル」と入っている。狐の嫁入り・深雪の里、みのやホテル・・・・・・。自分がこれを着てから、ますます硫黄臭くなっただろうとカザマは思う。」
<セリフ>
「あなた・・・・・・、温泉卵の、いいにおいがするわ。こちらの方なのね?」
<締め>
「カザマはホールで踊る者達に視線をやる。トクが目を大きく開いて、口笛を吹くように唇を丸めているのが見えた。だが、ターンをするたびに、カザマとミツコにカップル達の目が止まるのが分かる。壁際でアルコールを呑んでいたり、休憩をしている者達も、奇妙な目つきをして、視線を注いでいた。まるで異国の人間を見るようにだ。
「大丈夫です・・・・・・誰も見ていないです」
ブエノスアイレスは雪がさらに激しくなる。」
<選評: 石原慎太郎>
「藤沢周氏の『ブエノスアイレス午前零時』は醜い都会からドロップアウトして田舎の旅館に勤める男の目で見る、同じ都会から束の間逃避してくる老人たちの老醜という、これも現代的主題を、昔横浜のチャブ屋にいたらしい外人相手の娼婦だった老女のノスタルジーにかぶせて描いた、なかなか感覚的な部分もある、よくまとまった作品である。」
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第119回授賞作: 『ゲルマニウムの夜』 花村萬月 (同時授賞)
<書き出し>
「僕の耳の奥、鼓膜に接するその内側に仕込まれているのはわりと性能のいい銀色をした音叉だ。その音叉がいきなり共鳴した。僕は在日米軍払い下げのパイプベッドを軋ませ、腹筋だけでゆっくりと上体を起こした。そのせいで耳に突っこんでいた鉱石ラジオのイヤホンが引っぱられ、耳の穴から抜けおち、床から三センチくらいの高さで左右に揺れて振り子の真似事をはじめた。」
<セリフ>
「ねえ、主イエズスはマグダラのマリアとやったかな」
<締め>
「溜息が洩れた。農場の朝は早い。夏期は四時半起床、即作業。僕の仕事ぶりはいい加減であるとはいえ、農作業は片手間にできるほど楽ではない。すこしでも眠っておかないと日射病で倒れかねない。僕はトラックのシートに横になった。足を縮め、膝を抱くようにして眼を閉じる。鉱石ラジオのイヤホンを耳に挿し、異国の言葉で鼓膜を愛撫してやる。とたんに朦朧とした。交接による股間の鈍痛を幽かに意識して、即座に墜落した。」
<選評: 黒井千次>
「花村萬月氏の『ゲルマニウムの夜』は、宗教という重いテーマに取り組む意欲とストーリーを運ぶ力量は充分に感じられるが、時に力み過ぎた文章が硬直を起し、対象を精確に捉えかねる点が気にかかった。また、全編のテーマである神の問題を引き受ける筈の告解をめぐる部分が、ほとんど会話のみで描かれていることにも不満を覚えた」
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