『発想の航空史 名機開発に賭けた人々』 佐貫亦男 著
- 著者: 佐貫亦男 著
- 出版社: 朝日新聞社
- 発行日: 1998年11月15日
- 版型: 文庫
- 価格(税込): 文庫: 絶版
戦闘機設計者による世界航空機開発史
著者 佐貫亦男(さぬき またお, 1908年~1997年)は、日本の航空工学の大家として、糸川英夫と並んできわめて有名である。
佐貫亦男は、1931年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業すると、軍の命令で日本楽器製造でプロペラの設計を行った。
日本楽器製造から1955年に分離されたヤマハ発動機のホームページ資料によると、航空機用のプロペラはもともとは木材で製造されていたため、木材の積層加工で楽器を造る技術とほぼ同じことから日本楽器が航空機プロペラを設計製造していた。当時、日本楽器が陸軍のプロペラを製造し、住友金属が海軍のプロペラを製造していたという。
佐貫亦男は、陸軍の九七式戦闘機のプロペラを担当設計した。九七式戦闘機は1938年に支那事変に投入され、国民革命軍(中国空軍)の戦闘機を圧倒した。1939年にはノモンハンに投入されてソ連軍の航空機と空中戦を交えた。
戦後、佐貫は、東京大学教授や日本大学教授を務めた。
開発者の「発想」をたどる
本書は、ライト兄弟以前(以後ではなくて「以前」)の航空機開発から、現行のロックウェル社設計の米軍B1-Bランサー爆撃機にいたるまで、まことに数多くの航空機種の設計とその設計思想について解説している。巻末に「機種索引」が載っており、この索引にある機種をざっと数えたところ、250機ほどの機種が掲載されていることがわかった。驚くべき数である。それだけ長い歴史の数多(あまた)の機種について設計思想を語れるというのは、さすがは、自ら戦闘機をデザインされていた設計者ならではと感じ入った。
佐貫は、本書の書名にもなっている「発想」ということについて、「あとがき」で次のように述べている。
「航空先駆者たちの発想をたどるつもりであったが、実際に書いてみると、なんのことはない、私の発想になっている。考えてみなくってもわかることだが、人間の思考過程を分析することは難しい仕事である。本人にだってわからないことが多いのだから」
ライト兄弟の飛行機の特徴と短所について、佐貫は、プロペラのチェーン駆動を挙げている。チェーン駆動は、双プロペラを反対まわりに回転させて反動トルクを消す利点があり、また、プロペラの進行率(飛行速度を、回転速度とプロペラ直径の積で割った比率)を大きくする利点があるという。しかし、チェーン駆動ではエンジンのパワーアップが難しいという決定的なデメリットがあるという。ライト兄弟は、そりとカタパルトはやがて廃止して、車輪を飛行機に装備したけれども、チェーン駆動だけはやめなかった。チェーン駆動をやめたらライト機ではなくなると考えていたらしいと佐貫は述べている。
戦時中、ドイツに滞在した佐貫
佐貫は、1941年、ドイツのユンカース社から最新のプロペラ技術を導入するために戦時中ドイツに渡ったが、独ソ戦が開始されたため日本に帰れなくなり、2年間ドイツに滞在を余儀なくされた。この時の戦時下ドイツの生産体制についての記述が本書にはある。佐貫は、1943年初夏にベルリン郊外ゲンスハーゲンのダイムラーベンツのエンジン生産工場で実習に臨んだ。その時のダイムラーベンツ製エンジンの月産数は約6百台で、そのほか6か所に工場があったが、ゲンスハーゲン工場が主力工場だったという。佐貫はすべてのダイムラーベンツの工場の合計生産数は千台程度、年産で1万2千台程度と見積もった。佐貫は、アメリカのエンジン生産数をプラットアンドホイットニー(P&W)社だけで月産1万台程度、年産12万台と見積もっていた。しかも、アメリカには、P&W社の他にライト社がエンジンを製造していて、ライト社の生産台数もP&W社と同程度と見ていた。つまり、アメリカの大馬力エンジンの年間生産数は20万台程度。ドイツのエンジン生産数はダイムラーベンツとユンカース社とを合わせても年産3万台に届かない程度。佐貫は、ドイツのエンジン生産体制を目の当たりにして、これでは、連合軍に勝てるはずがないと、心底落胆したのだったと述べている。
本書は、世界の航空機の設計と製造の現場を実際に見て、自らも航空機の設計に携わってきた、日本の航空工学の大家による貴重な書である。
本書は残念なことに現在絶版となっている。このような本こそ、Kindle版での復刊が望まれる。